コロナ禍がもたらすもの

雲ノ平山荘

コロナ禍がもたらすもの

コロナ禍がもたらすもの


登山時報 2020年7月号


 コロナ禍における山小屋についての原稿依頼であったが、あえて一歩引いた視点で見たいと思う。コロナ禍は純粋に疫学的な問題であり、山小屋は社会的に合意されている危機管理策を踏襲する立場にあって、コロナ対策に焦点を絞れば、案外に固有の要素は少ない(詳細は山荘Webサイトを参照してもらいたい)。
 一方、コロナ禍が山小屋文化に及ぼす影響を考えると、それはすでに顕在化しつつあった様々な問題の加速化・深刻化をもたらすと思う。問題の根底にあるのは、日本における自然環境政策(国立公園)のステータス及びプライオリティの低さである。
今回はそれを踏まえて登山文化をとりまく社会的な背景を考察してみたい。

自然保護思想と国立公園

 そもそも、自然保護思想や国立公園制度、アウトドアレクリエーションの発想自体が「基本的な人権」の問題であることをどれだけの人が意識しているだろう。
 コロナ禍により、むしろ山岳団体の側から「登山は不要不急、趣味や娯楽」なので迷惑をかけないように自粛するべきだ、という言説を科学的な裏付けも乏しいまま流布しているのをみると、日本ではそうした権利の意識は希薄である(Webサイト内「登山自粛論」参照)。
 病気への警戒は当然必要だが、実質的に様々な社会活動が制限され、鎖国状態にある現状でこそ、足元の大自然は大きな希望ではないだろうか。
 世界を見渡せば、自然保護やアウトドアスポーツも人々が命がけで勝ち取った権利である。権利を手放す時には、慎重にならなければならない。
 19世紀の欧米で、産業革命によって脅かされた自然環境や生活環境、歴史的文化を守ろうとして市民が立ち上がったのが、自然保護思想に実を結び、その自然に学ぶ機会を将来にわたって失われないようにするための仕掛けが国立公園という制度に帰結した。また、領主に占有されていた広大な土地を「歩く」権利を求めて人々が行進した、イギリスのフットパス運動などにもみられるように、アウトドアスポーツは権力者や資本家から行動の自由を勝ち取った歴史の上に成り立っている。
 根底にあるのは、自然は生活の基盤であり、人々が自然の美を共有することが社会の持続性にとって不可欠なことだという価値観である。この価値観により、欧米の国立公園は人々にとって、生活の権利と地続きの関心事になっている。
 しかし、日本社会では登山は流行したものの、自然保護思想は社会に深く根付かなかったことで、国立公園の自然保護システム、予算などが極めて脆弱であり、国民にとっても登山(国立公園)は普遍的な社会問題とは無縁のレジャーとしての認識が色濃く、自然をめぐる学問の層も薄い状況が続いてきた(「山と僕たちをめぐる話」参照)。
 その自然保護空白地帯で独自の発展を遂げてきたのが民間事業としての山小屋である。
 日本で、多くの国立公園の日常的な維持管理を山小屋(をはじめとした民間団体)が担っているのはこのような背景に由来する。この体制があってこそ、北アルプスでは一般に広く開かれた登山文化が成立し、観光経済としても発展してきた。
 山小屋が担う公益的な業務は登山道整備、遭難救助、緊急避難場所、情報提供、行政、学術機関の活動拠点の提供など、非常に多岐に渡っている。

山小屋の抱える問題

 しかし、近年山小屋の経営環境を根底から揺るがす問題が加速度的に増えており、従来の国立公園のあり方が機能しなくなる可能性が高まっている。
 これは、やみくもに山小屋を守れば良いという話でもなく、国立公園、登山文化の持続可能性の観点で、全体的な構造を再構築するべき時期になってきているということだ。以下に山小屋を取り巻く主な問題を挙げてみたい。


・いわゆる「山小屋ヘリコプター問題」。1960年代以降、ヘリコプターは山小屋の生命線である。しかし近年、産業構造の変化などの影響で、ほぼ全ての航空会社が山小屋の物資輸送業務を縮小・撤退しつつある。10年間で倍以上の値上げが行われている上に、作業供給力の低下などが顕著で、次に山小屋が老朽化した際には、建て替えるということが採算が取れない、あるいは計画が立たない事業になる可能性が高い。現状航空会社の山小屋撤退を抑制する制度も動機付けもなく、この問題を放置すると近いうちに破綻する山小屋が続出する可能性がある。


・建設費の高騰。建築資材、工賃などの高騰も追い打ちをかけている。建設費は10年間で1.5倍程度上がっているとも言われており、これも上述のように、山小屋の建て替えが不可能になる可能性を示している。


・人材不足。人口減少や不景気、生活観の変化(集団生活を志向しない)などによりスタッフが集まらなくなってきている。時代に対応したイメージの刷新などができていない山小屋側にも問題があることではあるが、スタッフが集まらない中で、山小屋がこれまでのように登山道整備や遭難救助を行い続けることができるかどうか、不透明である。


・山小屋泊の登山人口の減少。キャンプ道具の飛躍的な進化などにより、登山ブームと言われる中でも山小屋泊で登山をする人口自体は減少傾向にある。インバウンドの台頭は期待されていたものの、コロナ禍により当面伸び悩む可能性がある。 すなわち、現状は収益は減少傾向である中で、急速に経営コストが上がっているということ。ヘリ問題や人材問題などは、単純に宿泊料金を値上げをすれば解決するということでもない。


・キャンプ場のオーバーユース。近年のキャンプブームにより、キャンプ場利用のあり方の改革も必要性が高まっている。雲ノ平でも50張程度でいっぱいになる敷地に対し、200張を超える利用者が集中する日がシーズンに数日はある。現状は合法的に利用人数を制限する権限は誰にもなく、このままではキャンプ場の環境は悪化の一途をたどるかもしれない。


・異常気象による登山道の荒廃。場所にもよるが、近年のゲリラ豪雨や大型台風などにより、山小屋の弱体化に反比例するように登山道整備の負担は増えている。あくまでも営利事業の付帯業務として、山小屋が担ってきた多くの公益的な作業を、今後どのように安定的に担保するのか、山小屋、行政、学術関係者や登山者の垣根を取り払い、持続可能なあり方を模索するべきである。今までは、場当たり的な側面が多かった登山道問題を、システムとして自律した国立公園の管理体制再構築の議論に落とし込んで行かなければならない。


 総じてこれまでの山小屋は、昭和の人口増加時代に、ある意味「放っておいても登山者があふれている」状況や潤沢なヘリコプターによる作業供給、輸送費の安さ、建設費の安さ、低賃金でもスタッフが集まったこと、などの各種状況に依存した(胡座をかいていた)ビジネスモデルだったと言える。 今、それらの条件が全て消滅しようとしている中で、業態の変化は避けられない。 これに加えてダメ押しのコロナ禍、ということ。

 コロナ禍の定員大幅削減により今シーズンの山小屋の売り上げは2、3割程度になる。この状況を長期間強いられるのであれば、料金を3倍にしても受け入れられるサービスの質を実現しなければ成立しないが、ほとんどの山小屋には不可能だと思われる。 ただ、前向きに捉えれば、これを機に今までのように登山者をぎゅうぎゅう詰めに収容する経営方針を廃止して、値上げしつつサービスを向上し、職場環境も整えるなど、どのみち限界を迎えていた今までのビジネスモデルを刷新する機会になるかもしれない。
 その上で、行政も包括的に現場の状況を把握し、各種問題をシステムの中で合理的に解決していくコーディネーターとしての立ち回りを強化することが強く求められている。だが、今は山小屋の業務を引き継ごうにも、現場を知る人材がほとんどいない状況からのスタートである。

コロナ禍の向こう側

 コロナ禍は議論の加速を促すものではあるが、決して独立した問題ではなく、コロナ問題に注力すれば事態が好転するわけでもない。それは、コロナで露呈された日本の政治機構の意思決定能力の低や、著しいIT化の遅れ、あるいはグローバル経済の脆さなどにもみて取れるように、いずれは直面しなければならない問題が前倒しになったに過ぎない。
 コロナ問題も、ヘリ問題も、登山道問題も、全ては関連しあった「登山文化・国立公園」の持続可能性の話であって、ただの山小屋の経営問題というわけでもなく、社会全体で自然環境とど う向き合うべきかという大きな問題に接続している。日本では歴史的に自然保護世論が弱いことがそもそもの原点としてあり、国立公園予算の少なさや自然保護を担う職業、学術機関やNPOの層の薄さ、公的なシステムとしての自然保護体制が手薄な状況を、山小屋や山岳会などの「事業者・利用者側」が補ってきたが、事態は抜本的な変化の必要性を示している。

 自然保護に関わるの予算、人材の拡充、科学的・社会学的なアプローチの強化、地域制公園としての協働体制の強化、入山料の導入など、先進国で成功している事例などを改めて積極的に導入しつつ、国立公園行政の抜本的な改革へと結びつけるべきだ。
 コロナ禍を機に、登山者がより自立した意識のもと、文化としての登山、社会と自然環境との、より創造的な関係性の構築を志す視点を持ち、新しい世論の潮流が生まれれば、この災禍も将来への前向きな転機になるかもしれない。