山と僕たちを巡る話|表現と自然

雲ノ平山荘

山と僕たちを巡る話
第4回
表現と自然

PEAKS 2019年1月号掲載
文・写真:伊藤二朗 
Text & Photo by Jiro Ito

北アルプスの最奥、黒部・雲ノ平での暮らしから垣間見えること。
「自然」と「人間」、そして「芸術表現」について。

 長雨のなか、あたりが明るんで、小鳥たちが一斉にさえずり始める。なにを意味しているのかなどわからない。でも自分のなかにもそのさえずりの明るい声音に似た、ある予感が芽生えていることにふと気づく。「雨が上がるかな……」。世界を肌身に感じるのは、そんなときだ。
 人はとかく、秩序だった規則や技術に幾重にも守られる日常生活のなかで、世界が実際は到底説明困難な、複雑で、混沌としたものだということを、ほとんど意識せずに暮らしている。けれど、ひとたび人工物などなにもない原生林にでも赴けば、その感覚はいともたやすく修正を余儀なくされるはずだ。
 ショッピングモールなら買い物、居酒屋ならば酒を飲み、テニスコートではテニスをしよう、というように、場所が目的を限定する、適当に導いてくれる、ということは原生の自然のなかでは一切ない。たとえばそのなかでなにができるのかと選択肢を考えてみれば、それはまったくの自由、ということにもなる。だれかと愛し合うのも、喧嘩するのも、絵を描いたり、読書、瞑想、散歩、狩猟採集、開墾に至るまで、むしろできないことなどない。そこには多くの危険と、あらゆる可能性があるだけだ。そして試されるのは自分自身にほかならない。生きられるのか、感じられるのか、楽しむための良いアイデアはあるのか、自分から生まれてくるものを見つけるしかない。人はときに、そんな別の真実に自分を晒して、浮世の感覚をリセットしたくなるものなのだろう。
 先日ラジオで、現代でもっとも先鋭的なドラマーのひとりともいわれるクリス・デイヴがインタビューを受けていて、これまでに影響を受けたアーティストはだれかという質問に対して、しばらく考えあぐねたすえに、「あえて言えば自然じゃないかな」という答えを返しているのを聞いて、僕はその単純さにささやかな感動を覚えた。もっとも、特定のミュージシャンを列挙したくなかっただけかもしれないが、ジャズ、ヒップホップ、ソウルなどのさまざまなジャンルのエッセンスを縦横無尽に駆使して放たれる彼の音楽を聞いて、そんな素朴な答えを予期していた人はまずいなかっただろう。
 そしてそれは含みのある返答ではあるけれど、きっと純粋な気持ちだったはずだ。自然はまぎれもなく、僕たちにありとあらゆるインスピレーションをもたらしてくれる。そして偉大な芸術表現はときにひとりの人から生まれたとは思えないような、自然現象を思わせるような奥行きや生々しさ、それそのものが息づいているかのような温もりさえをも感じさせるのだ。芸術に対する衝動は人間の意識を「自然」に戻そうとする作用でもあるのかもしれない。

 確認されているだけでも、人類は約6万5千年前にはスペインのラパシエガ洞窟に現存最古の壁画を描き、いまに至るまで連綿と自然をモチーフにしたさまざまな表現をしてきた。昔の人の意図は確かめようもない部分もあるが、あるときは自然を畏怖し、あるときは寄り添い、おもしろがり、いずれにせよ宗教や思想、芸術活動などによる表現を通じて、人間社会とそれ以外の存在である「自然」との最善の関係性を築くよすがにしてきたのだと思う。
 当たり前のことだが人類も自然の一部なので、その「自然」との関係性を考えるというのも不思議なことではある。僕の理解では、人の理性というものは基本的な矛盾をはらんでいて、自分たちが繁栄するための技術や知識を溜め込んでは行使するうちに、今度は生活環境を維持できないほどに資源を使いすぎ、あるいは土地を汚染して困窮するということを遥か昔から繰り返し、そのたびに「自然」との関係性を見直さざるを得なくなる。やがて人間同士のせめぎ合いもエスカレートしてくると、「人間」とは「自然」とは一体なんなのかという自問自答はさらに顕著になり、理性や技術の破壊的な側面を抑制するため、さまざまな考え方や美意識というものを発明してきた。
 だが、その矛盾がかつてないほど膨れ上がっているのも僕たちの生きる現代だろう。スローライフ、持続可能性、という言葉が盛んに唱えられているのも無理のないことだ。そして自分自身がスローになる人もいれば、高速回転する巨大な歯車の勢いを緩めるために、必死にその歯車に飛びかからなければいけない人もいる。スピードを愛している人もいる。スローになるといっても難しいものだ。美しい音楽でみなが立ち止まれるような、あるいは楽しくてその場で踊り出してしまうような、そんな穏やかな解決方法はないものだろうか。

PEAKS記事

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