山と僕たちを巡る話|地域制自然公園(4)

雲ノ平山荘

山と僕たちを巡る話
第16回
地域制自然公園(4)

PEAKS 2020年1月号掲載
文・写真:伊藤二朗 
Text & Photo by Jiro Ito

北アルプスの最奥、黒部・雲ノ平での暮らしから垣間見えること。
「国立公園」問題の最終回は、今後の目指すべき方向性について。

 (前回からの続き)
 僕たちはなにができるか、という話で締めくくりたい。日本の国立公園にとって必要なのは、協力関係の輪を広げることだ。立場の違いを乗り越えて「山」を中心に人々が歩み寄り、自然をもっと創造的に「利用」する方法を考えるところから、大きな可能性が開けるはずだ。
 まずはいま、山小屋や行政をはじめ現場で山に携わっている人々が、社会にとって自然環境や登山文化の話が、どうしたら「他人ごと」ではなくなるのかを考えるべきなのだろう。遠回りのようだが「生活と自然、国立公園と登山文化」がすべて地続きの存在だということを改めて共有することからはじまると思う。
 ――自然や歴史的な文化といった共有可能な価値観を失った社会では、人間の繋がりは薄れ、精神的な拠りどころも見出しづらくなり、いつしか経済活動のモチベーションや社会への参加意識も保てなくなる。また、田舎の自然景観や生活観などへの配慮をせずに、無機質な工業化などを進めれば、短期的な利益と引き換えに地域社会の誇りや愛着、経済的な自立などが脅かされ、都市に対する劣等感を助長し、結局は田舎の過疎化、都市部への人口集中、都市の住環境の悪化などもすべて同時に引き起こすことになる――
 これは「ヘリコプター問題その2」で僕が書いた一文だが、この考え方は「持続可能性」に深く結びついている。ヨーロッパで自然保護の思想を芽吹かせ、発展させた原動力は、産業開発の拡大に対し、自然と調和した生活を守ろうとした市井の人々だし、その発想はなにも綺麗ごとではない。暮らしの穏やかさや美しさといった日常の価値が失われた途端に、地方社会はなし崩しに解散に向かうという危機感である。あらゆる人間活動を持続させるためには、自然の価値を共有することが必要不可欠だと気づいたのだ。
 その意識を保つための象徴であり、学びの場として「国立公園」という発想が結実した。それを楽しみながら実践するひとつの方法論がアウトドアカルチャーなのである。
 これまでも言及してきたように、日本の国立公園は設立当初から「自然保護」の文脈で社会的な支持を得られず、観光産業に傾斜した形で発展してきたために、現在に至るまでほとんど自然保護の仕組みが存在しない。また、自然観を共有するより登山ブームが先行したことで、山に登らない人にとって山は「一部の人の趣味や娯楽」という認識になってしまっている感が強い。
 それでは国立公園と社会を結びつけるために山小屋にはなにができるだろう。僕がいま考えているのは、山小屋をより実用的な「たむろ場」にすることである。そして山を巡るさまざまな情報や経験を集約し、繋ぎ合わせ、発信する役割を積極的に担うことだ。
 世間から僕は行政批判の急先鋒のように見られているかもしれないが、雲ノ平山荘の取り組みとしては積極的に行政との関係性を深めている。この12年間、東京農業大学と共同で、荒廃地の植生復元の研究を行なっているのも、そのひとつだ。山岳地での研究は山小屋が積極的に働きかけなければ実現しない。現在ではこの活動に、林野庁、環境省、富山県などを巻き込み、毎年一度、雲ノ平山荘で現状の課題などについて、ざっくばらんに意見交換をする機会を作ることで、いままでにない横断的な学びの場として機能し始めている。こういった取り組みをさらに進化させたい。

 山小屋の公益性の発展形として次に思い当たるのは、将来的にレンジャーのステーションとして機能させることだろう(※1)。彼らが現場で経験を重ねることで、より実践的な知識、経験則、美的センスや愛着を身につけ、「規制」するだけではなく、山小屋や社会に対して真に創造的な影響を行使できるようになれれば、状況は変わっていく。
 学術的な研究や発信の基地としても、山小屋はもっと役立つはずだ。自然保護の方法論を追求するにせよ、社会に広く自然の魅力や価値を知らしめるのにせよ、客観的なサイエンスの視点は不可欠だが、日本ではまだ圧倒的に不足している状況だ。雲ノ平では新たに学者を招いてワークショップを開くなどの試みを始めている。
 メディアも遊びを追求する一方で、サイエンスやジャーナリズムの視点で、山小屋をもっと有効利用してほしい。国内の観光ブームを煽るだけでは、結局持続的な経済活動にすらならないことは、明らかになりつつある。どうしたらより本質的に、社会と自然の関係性を深めていけるのかを、ともに考えていきたい。
 もうひとつ見過ごされがちな点だが、芸術やデザインの分野にも無限の可能性がある。イメージしやすいところではフィンランドの自然に根ざしたプロダクトデザインや建築などもそうだが、生命感のあるデザイン空間を都市に持ち込むことで、都市生活の価値観や田舎の捉え方をも変えていくことができるはずだ。山小屋がアーティスト・イン・レジデンスなどを試みてはどうだろう?ということで、早速準備中だ。
 登山者は自由にさまざまな現場を旅するなかで、見識を深め、山小屋に届けてほしい。こうしたすべての視点を結びつけていき、国立公園と社会の溝を埋めて行く。
 僕自身、「ヘリコプター問題」の発信以降、企業による寄付金システム構築やNPO立ち上げの提案、新世代のメディアによる国立公園問題の取材活動、中小のヘリコプター会社からの協力打診など、いままで水面下に潜んでいた人々の志に接する機会が大幅に増えた。自然環境に関わる社会活動や「仕事・生活」の選択肢を増やし、想像力を豊かにすることが大切だ。
 関わり合って可能性を広げる、というのが地域制公園の本質である。
 そして「真剣に楽しむ」ことでそれは成熟していくのだ。


※1)現在富山県全域で1名しかいないレンジャーを最低でも10名ほどに増員することが必要。

PEAKS記事

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