雲ノ平山荘
アーティスト・イン・レジデンスプログラム
展示会
会期 |
2022.4.19(火)- 2022.5.5(木) |
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時間 | 13:00-20:00 |
会場 |
The 5th Floor:
HB.nezu:
〒110-0008
東京都台東区池之端2-6-12-201 https://www.facebook.com/HBNezu-112459413555574 【ご案内】 順路の都合上、展覧会「Doffusion of Nature」の入場受付はHB.Nezuにてお願いいたします。 |
入場料 |
¥500 (book付き) |
アーティスト | |
主催 |
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共催 |
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協力 |
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協賛 |
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お問い合わせ |
kumonodaira@kumonodaira.net TEL:046-876-6001 |
トークイベント-宮台真司×伊藤二朗
雲ノ平山荘アーティスト・イン・レジデンス・プログラムは、山小屋の現場から、社会と自然の調和をデザインすることをテーマとして2020年からスタートした。
山小屋としてプログラムに取り組んだ原点には、雲ノ平を取り巻く自然環境(国立公園)の危機的な保全体制へのコミットメントがある。歴史的に見て、明治以降の日本では工業化に傾斜した近代化を推し進めるあまり、風土に培われた生活文化や自然観は急速に衰退した。他方、近代化の手本とした欧米では、産業革命へのカウンターとして多様な市民運動(芸術運動、人権運動、自然科学など)が台頭したことによって自然保護的な価値観が醸成されたものの、日本ではそれも根付かなかったため、自然観に著しい空洞化が生じている。こうした背景によって、自然と共存することの象徴として機能すべき国立公園も、消費的な観光地としての意味合いしか与えられず、システムの不全によって慢性的な存立の危機に直面しているのだ。そこに新しいインスピレーションと可能性をもたらすことを企図した。
ただ、自然の価値をめぐる社会思想の基盤が弱い現状での活動は、かえって強い説得力が求められる。関心を持たない世論にも訴えかけるほど普遍的な表現領域に踏み込まなければ、 誰にも届かないからだ。なぜ「自然」は必要なのか。それは美なのか、科学なのか、物語なのか。 現代のグローバルな環境危機や情報化の混乱などの複雑な現状を認識した上で、いかに必然的な当事者性をもって「自然」を捉え、価値基準を提示できるのか、そのために自然の現場は何を表現し得るのかなど、明確なヴィジョンが不可欠である。ここでのアートの位置付けは手段ではなく、本質である。「自然」に分け入っていくことそれ自体がアートであるとも言える。その普遍性を見据えて、活動を展開したい。
果たして、「自然」とは何だろう。 人類は、数千年間に渡って理性を行使して繁栄を獲得しながら、過剰な開発が自らの生存環境を脅かすという、矛盾した状態の狭間で揺れ動く「自然」の一形態である。 産業革命以降、19世紀初頭には10億人に満たなかった世界人口はわずか200年で75億人に達し、その間の技術革新でエネルギーの消費量は100倍を越えたと言われる。私たちは、根本的に地球の気候を変えるところまで来てしまった。 一方で、環境危機の規模が大きくなる程に、エコロジーは形而上学的(あるいは資本主義的)な抽象度を高め、更には、急激に発達したデジタルシステムへの依存が、人間を自己の身体性という「自然」からも遊離させている。生活の自律性は解体され、決定的な経済格差とアイデンティティーの画一化がもたらされる中、環境正義以前に、自分の生命の小さな寄る辺を防衛することに必死な人々の姿がある。 繁栄と孤立、生命の豊穣、破壊とメタバースが乱反射する世界こそが、私たちの「自然」である。
豊かに生きようとするのなら、身体で感じる(に値する)世界を改めて発見するしかない。持続可能性とは、人々が積極的に「このままでありたい」と望む世界であって、それは美の概念や身体的な充足を抜きにしては成立しないだろう。その身体性を通してこそ、この惑星や、モニター越しの他者への想像力も機能するはずだ。手がかりとなるのは場所の共有であり「自然」との遭遇である。
このプログラムは、人間社会から隔絶された雲ノ平という原野で、アーティストたちが一人の旅人 (媒介者)として原生自然に遭遇するという体験を通し、改めて私たちをめぐる「自然とは何か」 という問いに向き合おうとする試みである。 彼らが、雲ノ平という場所を、それぞれに異なる感受性で捉え、咀嚼することによって生み出す作品群は、色彩、造形、音、科学的考察、具象から抽象まで、実に多様で、豊穣なイメージとして実を結んでいく。 それは環境としての「自然」の多様性の反映であると共に、個々人に内在する「自然」と「社会」 の発露でもあることに、私たちは気づかされる。「自然とは何か」という問いかけは、いつしか反転して「人間とは何か」という問いに接続していくだろう。中心軸の無い流動的な二項対立を読み解くうちに、人と自然の複雑な関係性が、立体的な像を顕にするかもしれない。「自然」は人間を映す鏡であり、芸術表現は人間の内なる「自然」を映す鏡になる。 こうした実践が積み上げられる中で、社会が失ってきた自明なリアリティーを回復させる手がかりになれば良いと思う。
まずは、13人のアーティストたちの「自然」をめぐる旅を見てみよう。