雲ノ平山荘
アーティスト・イン・レジデンスプログラム
展覧会
この度、2年ぶりとなる雲ノ平山荘アーティスト・イン・レジデンス・プログラム(以下AIR)の成果展【Diffusion of Nature 2025 距離のゆらぎ】を開催します。
本プロジェクトでは、本州最大の山岳地帯・北アルプスの奥地にある雲ノ平において滞在制作を行った14人のアーティストたちの視点を通して、私たちにとって「自然」とは何か、という問いを深めていきます。
環境危機が叫ばれる今、私たちは予測不能な破局をもたらす存在としての「自然」を恐れつつ、同時に、高度に機械化された社会のなかで親しみのある存在としての「自然」を探し求めています。「自然」を巡っては、時代や地域、個人ごとに記憶、利害、価値観の物語が複雑に絡み合い、それに向かう態度は常に揺れ動きます。私たちにとって「自然」とは何なのでしょうか。
この問いをさらに深めるために、本展では「距離」という言葉を取り上げます。
平和、権利、自由、協調、多様性、多くの概念は、意識されることのなかった「あるべきバランス」が崩れたとき、はじめて生まれてきました。私たちの思考を加速させるのは、常に未知数としての「あるべきバランス」と「現実」の間に横たわる距離なのではないか。そして、表現活動とは、この距離を縮めようとする営みの一環であるということができるかもしれない。そのようなイメージから、展覧会タイトルを「距離のゆらぎ」と銘打ちました。
「自然」もまた、「あるべきバランス」と現実の距離が生み出した概念のひとつです。
「自然」という言葉が現代的な意味を持ち始めたのは、18世紀後半の産業革命以降です。自ら生み出した技術やシステムにより、生活環境が急激に変容する中で、人々は新たな緊張感を持って「自然」について考察を始めました。古い文化や景観などの共通価値の喪失、都市の人口過密化による公害や感染症の蔓延、資源の枯渇、相次ぐ戦争など、繁栄と混乱が交錯し、大きな利便性と引き換えに安定した生活モデルも失われ続ける時代。「人間」に対する不安の背後に、懐かしい友であり、絶対的な支配者であり、生活の手段でもある「自然」の多義性を透かし見るようになります。「自然」は実体のある対象ではなく、自分達と環境の相互作用として成り立つ世界を考察するための方程式の中の、xやyのような未知数として醸成された概念だと言えるかもしれません。
また、地質学の研究では、これまでに地球上では何らかの環境変化によって幾度となく大量絶滅が発生し、そのたびに生態系のバランスが覆されたことが指摘されています。その際、恐竜を絶滅させて哺乳類の台頭を促した隕石も「自然」だとすると、「自然」は「制御できないもの」として捉えることで、ようやく考察可能な概念になるようにも思われます。人新世といわれる今、最も制御できない「自然」は私たち人間自身なのかもしれません。
山奥にひっそりとひらける不思議な庭園のような佇まいから、かつては「最後の秘境」と呼ばれた雲ノ平でも、近年は急激な温暖化による積雪期の短縮の影響を受け、生態系が大きく変化しつつあります。氷河期の生き残りの植物相である高山植物の生息圏は、それらの生み出す景観と共に徐々に失われ、やがては暗い樹林帯に飲み込まれる未来も現実味を帯びてきました。しかし、それもまた「自然」のいち断面にすぎません。
「自然」という言葉が溢れる今、私たちは「自然」を通していかなる距離を克服しようとしているのでしょうか。
本展では雲ノ平という土地に遭遇したアーティストたちが、内面化された感触と概念の間でゆらぐ「自然」を音、言葉、造形、色彩、身体、空間などとして表すことを通じて、私たち自身を内包した「自然」の姿を描き出します。
彼らの視点が、「自然」をめぐる問いの座標となり、混沌とした世界で喜びを持って歩むための道しるべになることを願っています。