Diffusion of Nature

雲ノ平山荘

2022年4月19(火)~5月5日(木)に行われた
雲ノ平山荘アーティスト・イン・レジデンス・プログラムExhibition
Diffusion of Natureの
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ご入場は、1.HB.nezuから
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Statement

Diffusion of Nature
「自然」をめぐる視点

雲ノ平山荘アーティスト・イン・レジデンス・プログラムは、山小屋の現場から、社会と自然の調和をデザインすることをテーマとして2020年からスタートした。

このプログラムは、人間社会から隔絶された雲ノ平という原野で、アーティストたちが一人の旅人 (媒介者)として原生自然に遭遇するという体験を通し、改めて私たちをめぐる「自然とは何か」 という問いに向き合おうとする試みである。
彼らが、それぞれに異なる感受性で雲ノ平を捉え、咀嚼することによって生み出す作品群は、色彩、造形、音、科学的考察、具象から抽象まで、実に多様で、豊穣なイメージとして実を結んでいく。 それは環境としての「自然」の多様性の反映であると共に、個々人に内在する「自然」と「社会」の発露でもあることに、私たちは気づかされる。「自然とは何か」という問いかけは、いつしか反転して「人間とは何か」という問いに接続していくだろう。中心軸の無い流動的な二項対立を読み解くうちに、人と自然の複雑な関係性が、立体的な像を顕にするかもしれない。「自然」は人間を映す鏡であり、芸術表現は人間の内なる「自然」を映す鏡になる。

山小屋としてプログラムに取り組んだ原点には、雲ノ平を取り巻く自然環境(国立公園)の危機的な保全体制へのコミットメントがある。
歴史的に見て、国立公園は19世紀の欧米において産業革命をきっかけとした開発による環境・文化の急激な改変に抵抗した市民たちが、芸術、自然科学、人文思想などの各種運動と呼応して、自然保護的な世論形成をしたことにより成立した。その国立公園を模倣して成立したのが日本の国立公園だったが、19世紀末の日本は、寧ろ自然信仰的な価値観を捨て、性急な工業化に傾斜していた時代であり、「自然」に関する自律的な価値判断が機能しなかった。そのため、自然に学び、共存することの象徴として機能すべき国立公園は消費的な観光地としての意味合いしか与えられず、現在に至るまでシステムの不全によって慢性的な存立の危機に直面している。この状況に新しいインスピレーションと可能性をもたらすことを企図したのが本プロジェクトである。

ただ、自然の価値をめぐる社会思想の基盤が弱い現状での活動は、かえって強い説得力が求められる。関心を持たない世論にも訴えかけるほど普遍的な表現領域に踏み込まなければ、誰にも届かないのだ。なぜ「自然」は必要なのか。それは美なのか、科学なのか、物語なのか。 現代のグローバルな環境危機や情報化の混乱などの複雑な現状を認識した上で、いかに必然的な当事者性をもって「自然」を捉え、価値基準を提示できるのか、そのために自然の現場は何を表現し得るのかなど、明確なヴィジョンが不可欠である。ここでのアートの位置付けは手段ではなく、本質である。ある種のリスクを冒して「自然」に分け入っていくことそれ自体がアートであるとも言える。その普遍性を見据えて、活動を展開したい。

果たして、「自然」とは何だろう。 人類は、数千年間に渡って理性を行使して繁栄を獲得しながら、過剰な開発が自らの生存環境を脅かすという、矛盾した状態の狭間で揺れ動く「自然」の一形態である。 産業革命以降、19世紀初頭には10億人に満たなかった世界人口はわずか200年で75億人に達し、その間の技術革新でエネルギーの消費量は100倍を越えたと言われる。私たちは、根本的に地球の気候を変えるところまで来てしまった。一方で、環境危機の規模が大きくなる程に、エコロジーは形而上学的(あるいは資本主義的)な抽象度を高め、更には、急激に発達したデジタルシステムへの依存が、人間を自己の身体性という「自然」からも遊離させている。生活の自律性は解体され、決定的な経済格差とアイデンティティーの画一化がもたらされる中、環境正義以前に、自分の生命の小さな寄る辺を防衛することに必死な人々の姿がある。 繁栄と孤立、生命の豊穣、破壊とメタバースが乱反射する世界こそが、私たちの「自然」である。
豊かに生きようとするのなら、身体で感じる(に値する)世界を改めて発見するしかない。持続可能性とは、人々が積極的に「このままでありたい」と望む世界であって、それは美の概念や身体的な充足感を抜きにしては成立しないだろう。その身体性を通してこそ、この惑星や、モニター越しの他者への想像力も機能するはずだ。手がかりとなるのは場所の共有であり「自然」との遭遇である。

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