「最後の秘境」と呼ばれたことが物語る通り、雲ノ平に人間社会との関連性としての歴史を辿ろうとしても、昭和期以前の記録はほとんど見当たりません。その名称の由来も定かではなく、周囲の稜線から見ると、時に雲ノ平のなだらかな地形を這うように雲が覆い被さり、文字通り雲の平原のように見えるためだとか、雪融け期に蜘蛛の形をした地肌が現れるから、など諸説あるようです。
近代登山の幕開け以前、江戸期までは黒部源流一帯は加賀藩の藩有林として管理されており、信州側の松本藩との国境に接した地域でもあったことから「奥山廻り」という役職を設け、年に一度は役人が地元の杣人を伴って見回りをしていましたが、雲ノ平については資源管理の監視対象にもならず、個別には言及されていません。
明治になり、職漁者が獲物を求めて渓谷のすみずみまで行き交い、雲ノ平に隣接した高天原(岩苔平)で大東鉱山によるモリブデンの採掘が行われるようになり、さらに表山ではアルピニズムの隆盛によって近代登山の機運が高まっても、雲ノ平は依然としてほとんど注目を集めることはありませんでした。黒部源流域自体が近代的な捉えられ方とは無縁なまま、それ以前の「資源利用地」あるいは山人の生活圏としての雰囲気を色濃く残し、あくまでも「最後の秘境」という幻想のベールに包まれた存在だったのです。一方で黒部の主と呼ばれた冠松次郎氏などは雲ノ平について「見るべきものはあまりない」として、特段興味を示さなかったようで、初期の近代登山の文脈では、より探検心を掻き立てる山や渓の探索が優先されていたことが伺い知れます。
それまでとは異なる観点で、黒部源流域の魅力を世に知らしめたのが、雲ノ平山荘の創業者である伊藤正一でした。航空工学の若き研究者として活躍していた正一が、敗戦によって研究の道を絶たれた後、親しい上高地の山小屋関係者の仲介で、戦争で主人を亡くした三俣蓮華小屋の権利を買い取ることになります。そして、北アルプス最後の未開地とも言える黒部源流域の開拓計画を立てるべく(自らの山小屋の)周辺エリアの探索を進める中で、雲ノ平との運命的な出会いを果たすのです(この物語は伊藤正一の著書「黒部の山賊」に詳しい)。草原に点在する池塘、周囲に絶妙に配置された溶岩とハイマツ、咲き乱れる高山植物、まるで庭師が入念に作り上げた庭園のような美しい光景…正一の目には一つの理想郷のように映りました。
彼はそこに山小屋を建設することを決意します。この時、黒部源流という北アルプスの最奥地に、資源利用ではなく、山や渓谷を探検するだけでもない、新しい山岳文化が芽生えることになりました。