コロナ禍の景色

雲ノ平山荘

コロナ禍の景色①
混乱と向き合う

 新型コロナウィルスの感染拡大により、様々な状況下で困難に直面している方々に、心よりお見舞い申し上げます。また、危機的な状況下で懸命に医療現場を支えている皆様に、心からの敬意と感謝を申し上げます。

 まずは、雲ノ平山荘からもこのメッセージは発したいと思います。
 感染症から人命を守り、人命を支えるあらゆる社会的、文化的財産の損失を可能な限り最小化するために、今は私たち一人ひとりが協力し、感染拡大を抑え込むことが重要です。
 また同時に、この未曾有の混乱にまぎれて社会的な弱者を切り捨てるような風潮があるとしたら、それを阻止することも私たちの大切な役割です。それは、いつでも自分自身のことになり得るからです。

 私たちは今回の新型コロナウィルスの流行が長期間に及ぶことを覚悟しています。ワクチンの開発に成功するか、人口の6割以上が感染して集団免疫を獲得するか、どちらかの状況にならなければ、社会活動の制限などで一時的に抑え込んでも、制限を解除した矢先に再度感染が拡大する、この繰り返しになる可能性があります。

 しかし、長期戦だからこそ「コロナウィルスによる生命の危機」と「経済活動の衰退による生命の危機」のバランスを冷静に見極め、どのような方策が社会にとって「生命をつなぐ最適解」なのか、一人一人が考える必要があります。
 ある学説によれば、失業率が1%上昇すると、日本の人口換算で約2,300人自殺者が増えると言われています。今回のコロナウィルス対策も、病気による直接的な死と、経済の衰退による間接的な死のトレードオフの関係を無視してはならないはずなのです。

 このことを思えば、(コロナ感染による死のリスクだけにフォーカスし)「人命第一」を振りかざして小規模事業者や個人の犠牲(経済的な死)はやむなし、というなげやりな考え方には注意しなくてはなりません。何が「不要不急」の職業なのか、という議論にも象徴されていますが、飲食店や水商売、エンターテイメントが「感染症を抑え込むという目的のため」には当面「不要不急」だという判断によって、救済策を伴わない休業要請を突きつけられ、存続の可能性そのものを絶たれてしまうのは明らかに社会的な暴力です。先進各国では多くの国が採用している、家賃や人件費等の固定費の補助などの対策も手薄な状況では、「外出自粛要請」の下で職場を失い、住む家を追われ、感染リスクの中で家探しや資金繰りに奔走しなければならない、という何重もの苦しみを余儀なくされる人が続出します。
 また、人口減少による労働力不足を補うための、事実上の移民政策により日本で働く外国籍の人たちを「経済支援の対象外にすべき」という意見が国会議員からすらも聞こえてきますが、これは純粋な人種差別です。

 零細事業者もホステスも大富豪も外国人も、お金を稼いで家族を養い、お金を使って他人を養い、様々な形で税金を納めて人々と分け合い、結果的に全体が連動して生活をしているという事実を思い描くべきです。今はコロナ禍が最大の懸案事項なのは疑いありませんが、あくまでも、感染症が社会の主役なのではなく、あらゆる人々の生命や生活が社会の主役なのです。

 感染症対策の観点からみても、失業者が急増し、住処を失って彷徨うようなことになれば、ますます感染の拡大は制御できなくなります。そして、失業者や廃業店舗が増えることは社会の生産性の減退であって、感染症収束後の復興を著しく遅らせる要因になるでしょう。感染症収束後に即座に1億円でも10億円でも稼げる能力のある個人や店舗が、全ての財産をなくし、生活保護受給者、ホームレスとしてスタートを切らねければならないことを想像してみてください。
 今は「誰も生活破綻させない」ということが最も重要な尺度なのではないでしょうか?

 また、このような社会危機の中では、より大規模な差別や対立が起こることも警戒しなくてはいけません。
 中世に欧州でペストが流行した時代にも、恐怖に支配された人々の間で「ユダヤ人が井戸に毒を流した」というデマが流れ、ユダヤ人に対する迫害が激化したり、魔女狩りが横行するということがおこりました。コロナ禍においても、各地におけるアジア人差別、感染者への迫害、中国人排斥や、医療従事者への差別という愚行が顕在化しています。また隔離生活によって、各地で家庭内のDV、ネグレクト、アルコール中毒者の増加、高齢者の健康状態の悪化などが報告されています。マスクの買占めが医療崩壊を助長することなどにも見て取れますが、感染症への恐れは、とかく病気そのもののリスク以上に、不条理な混乱を生み出すことで社会のダメージを深刻化させるのです。
 今後、万が一世界恐慌などが現実のものになれば、恐怖と憎しみが激化し、最悪の場合戦争のような災厄に発展する可能性すらもあるのではないかと心配になります。誤解を恐れずに言えば、コロナ罹患による1万人の人命危機を恐れるあまりに、いつの間にか病気以外の理由で100万人が死の危険に晒されるという状況にもなりかねないのです。
 今こそ、等しく困難に直面している者同士の共感と連帯意識を持ち、必要以上の混乱を未然に防ぐという意識が不可欠ではないでしょうか。

 「生命を守る」とは何でしょう。それは物理的な「人命」の尺度だけでは捉えきれないものです。見方を変えれば人間の生命の実態は「時間」であって、過去から現在までの、膨大な人々の暮らしや仕事に費やした時間が、文化、テクノロジー、国家や街を生み出し、それら全てが結びついた結果としての経済活動が私たちの存在を支えています。社会という生命があって初めて個々人の暮らしが成り立つことを思えば「生命を守る」というのは単純な論理ではありません。

 コロナ禍が長期化すれば、日本社会の潜在的な問題がより顕著に突きつけられることになるでしょう。
 少子高齢化による社会福祉の負担、縦割りや年功序列主義などによる意思決定の遅さや状況評価の甘さ、IT化の遅れ、生活資源の対外依存度などが、ますます重くのしかかることが予想されます。
 今しも、強制力、補償、情報公開が伴わない緊急事態宣言の下では、多くの店舗が店を開き(開かざるを得ず)、テレワークできないサラリーマンが街に溢れています。また、自粛と義務の境界線の曖昧さによって人々の状況理解にムラが生じ、非難の応酬が起こりつつあります。
 感染症対策も経済支援策もうやむやな現状では、結果的に事態が長期化し、社会のダメージは大きくなるでしょう。
 政治判断の問題点を指摘することも重要な一方、私たち自身が持続可能なバランスを見出すための実践的な思考を加速し、コロナ禍と共存し得る社会システムを再構築する必要があるのではないでしょうか。

 少なくとも、銃弾や津波に襲われるのとは違い、考える猶予は継続的に確保される中、冷静に事態を見極め、考える力こそが私たちの未来の明暗を分けるはずなのです。

2020年4月22日 執筆