山と僕たちを巡る話|枯野と岩

雲ノ平山荘

山と僕たちを巡る話
第2回
枯野と岩

文・写真:伊藤二朗 
Text & Photo by Jiro ito

北アルプスの最奥、黒部・雲ノ平での暮らしから垣間見えること。
小屋閉め間近の晩秋、黄金の草原にて思い馳せる。

 小屋閉めも近づく10月初旬、あたりはすっかり晩秋の気配に覆われている。淡く透明な日差しが降り注ぎ、夏の生命のざわめきが去った草原は、金色の眠りのなかでまどろむ。ときおり聞こえる音といえば、そよ風に枯れ草がさらさらと鳴る音や、ハイ松の実の収穫に励むホシガラスの立てる微かな羽音だけだ。外で立ち止まって耳をすませば、異様なほどの静けさに、夢の景色のなかで自分の意識だけが宙に浮かんでいるような感覚にとらわれる。多くの生物が家路につき、あるいは眠りの世界に帰り、透明な光と、人間だけが取り残されている。この季節が僕は好きだ。
 そんな静まり返った気配のなか、忽然とその存在を主張している者がいる。白い枯野のそこかしこから頭を出している岩たちだ。この季節になると、ガランと広がる地表に蒼黒く浮かび上がるさまざまな形の岩のシルエットが、いつのまにか視界の端々に直接飛び込んでくるように感じる。まるで夢の世界の主役は自分たちだと言わんとするかのように。
 雲ノ平一帯にある岩は10万年ほど前に活動した「雲ノ平火山」によって流出した溶岩が冷え固まって砕けたもので、言わばこの黒っぽい溶岩の集積が雲ノ平の台地を形成している。その上に少しずつ植物の種子が舞い降りては芽を出し、枯れては朽ちることを繰り返すことによって徐々に土壌を形成し、気の遠くなるような歳月をかけて現在のように池塘の点在する穏やかな湿原の景色を生み出してきた(※)。寒冷で多雪の高山では、年毎の植物が発育できる期間が短い上にバクテリアの活動も弱いため、土壌が形成されるペースが極めて遅く、10万年もの歳月の結果としてわずか30㎝程度の堆積にしかならない場所もある。その薄皮一枚の土が、岩の塊である雲ノ平に生命の色彩をもたらしている。
 そして溶岩が適度な水気を含みやすい性質であるため、比較的乾燥した環境を好む草花にとっては格好の住み家になり、春には多くの岩の上に咲くチングルマやアオノツガザクラ、イワカガミ、キバナシャクナゲなどの花々が草原のなかにぽつぽつと、浮島のような小さな花畑を見せてくれるのだ。かくして岩たちは、夏の間こそ生命感に満ちた景色のなかで全体を織り成す一要素にしか見えないものだが、秋が深まるにつれて周囲は静かな空白に包まれ、まるで住人がだれもいなくなった古代遺跡に遺されたモニュメントのように、10万年も変わらぬ囁き声を顕わにするようになる。

 景色というものは不思議なものだ。定まった状態は存在せず、季節や天候、動植物の気配や見る者の心境なども反映して一瞬たりとも同じ姿をとどめることはない。そしてひとつの岩が暗黙のうちに語り掛けるように、そこにはいまはもう存在しない多くの者たちの記憶や旅路が連なっていることに、ふと気づかされる。
 思えばつい数百年前に人が訪れるようになるまで、雲ノ平は何万年もの間、景観美などという概念すらもない無垢の原野だった。カモシカやオオカミが駆け回り、トキが上空高くを渡り行き、岩の上にはいまと変わらずチングルマは咲いていたかもしれない。それらすべての純粋な生の営みが緩やかに景色を変えていったのだろう。やがて人間社会が活動を拡大させるなかで、猟師や鉱山労働者が行き交う時代や、爆弾を抱えた戦闘機が彼方を飛ぶ時代が訪れては過ぎ、70年ほど前のある日、まだ若い父が日本の敗戦によって人生の進路を変え、冒険者としてこの地に足を踏み入れた。そして目の前に広がる原野に生涯をかけるべき美しさを見出したのだ。この遭遇がなければ、少なくとも僕はここにはいない。自分の存在も、連綿と続く大地の記憶に、戦争の記憶にすら結びついている……。
 その父も2年前に鬼籍の人となった。彼が夢中で駆け抜けた開拓時代もいまや幻となり、あたりには当然のように登山道が整備され、山小屋に大勢の人々が訪れ、ヘリコプターが飛び、谷にはダムが横たわり、いつのまにかさまざまな時間軸が混在する世界が目の前にある。「忘れたくないものだ……」とあらためて思う。人が山を目指すのは、この景色の背景に世界の莫大な記憶や、普遍的な生命の物語を見出すからなのだろう。そのゆるぎない存在を通して、僕たちは束の間のこの人生のなかで、あるいは洪水のように移ろう人間社会のなかで、少しだけはっきりと、なにが本当に美しいもので、なにが生きるということなのか、自分に問いかけてみることができる。
 岩の上でホシガラスが収穫してきた松ぼっくりを無心につついている。岩は変わらずに、ただそこにあるだけだ。


※古い粘土質土壌や近隣の火山活動による火山灰の堆積などが複合的に作用し、地表面近くに不透水層を形成したことで、雲ノ平に湿原と呼び得る環境ができた。

PEAKS記事

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