山と僕たちを巡る話|雲ノ平の水

雲ノ平山荘

山と僕たちを巡る話
第5回
雲ノ平の水

文・写真:伊藤二朗 
Text & Photo by Jiro ito

北アルプスの最奥、黒部・雲ノ平での暮らしから垣間見えること。
山の生活には欠かすことのできない“水”についての話。

ひとシーズンに3、4度あるかないかのことだ。よく晴れて気温が下がった朝、雲ノ平のありとあらゆる草花にめいっぱいの朝露が降り、そこに朝日が差して草原全体が光の海のように白銀に輝くことがある。コメススキやイワノガリヤスなどの普段は目立たないイネ科の植物もこのときばかりは、弧線を描いた姿形に添って無数の水滴を連ならせ、まばゆいガラスのオーナメントのように美しい。思えばそれらすべての水滴がある種のレンズになって、それぞれにひとつずつの太陽が写り込んでいるわけだから、目がくらむのも無理はないというものだ。ともあれ、そのような朝に散歩をするのは格別である。

 今回は雲ノ平にまつわる水の話をしようと思う。
 訪れる人によく驚かれるのだが、雲ノ平山荘の生活は決して潤沢な水資源に支えられているわけではない。山荘の生活用水はすべて雨水で賄われており、宿泊客が自由に使える水は、水量を絞って糸のように細く出る洗面台の蛇口のみで、スタッフの入浴も雨の降り方次第では大分間が空いてしまうことがある。多くの人は雲ノ平を、なみなみと水を湛える池塘や草原に咲く花々、沢筋から緩やかに伸びる山麓の緑、あるいは新しい山荘のイメージなどから、なんとなく水気にはこと欠かない土地だと思い込んでいるように見受けられるが、現実はなかなかシビアだ。
 雲ノ平は山荘付近の標高が2600mほどで、森林限界に差し掛かる立地である上に、高い山が隣接していないために湧き水も乏しく、雪解け水を利用できるのも、残雪が多い年でせいぜい7月いっぱいである。最寄りの湧き水といえば、祖父岳の直下で山荘から1・2㎞ほど離れ、かつ若干標高の低いキャンプ場にあるものが唯一利用可能なものではあるが、これもたとえば昨年(2018年)のように残雪が少なく、1カ月間も日照りが続くと枯れる寸前まで水勢が弱くなってしまう(※1)。
 2010年の小屋の新築までは可搬式の消防ポンプを使って、随時キャンプ場から水を送っていたのだが、ポンプの性能の限界域での運転だったせいか、頻繁に故障して悩みの種だったこともあり、山荘の新築を機に廃止し、雨水で運営する方針に切り替えた。機械の調子に一喜一憂するよりは、大きくなった屋根を活用して、ひとまずどこまで雨水だけでやれるのか試みたかったのだ。
 当初こそ少々甘く見ており、水の使用ペースや貯水量に無理があって、水が不足しては急場しのぎにスタッフ総動員でキャンプ場から歩荷をしたり、登山者にボランティアを募るなどということもあったが、近年はようやくこなれてきたというところだ。もっとも、長い歴史をずっと雨水で切り盛りして来た稜線の山小屋などは少なくとも30トン以上の貯水槽を保持しているという話を聞くと、増やしたとはいっても16トンほどの蓄えしかない雲ノ平山荘はいっぱしの天水小屋になるには、まだまだ道半ばと言うべきだろう。

 ところで、雲ノ平には融雪期か大雨のあとでないと地表面に現れない沢がある。山荘の目の前の北側のくぼみの地下を流れる祖母沢の源流である。上述のキャンプ場の湧き水がそのまま祖父沢の流れになっているのに対して、祖母沢は途中まで伏流水として流れているために普段は目につかないが、耳をすませば登山道沿いのごつごつした岩組みの下から水が流れる音が聞こえてくる。
 その見えない沢は、雲ノ平のスイス庭園からギリシャ庭園あたりにかけて、(第2話のコラムで書いたような地質の構造上)地表近くの不透水層に沿って網目状に流れている伏流水が、小屋の付近でより深くに潜りつつ一筋にまとまり、それが祖母沢の流れになる。このことを知らずに祖母沢を遡行しようなどと思い立つと、大分長い距離のひどい藪漕ぎをしなければならずに面食らうのである。
 ともあれ、雲ノ平の核心部はそのまま祖母沢の水がめになっていると僕は解釈している。この沢が大雨や長雨で水嵩を増して地表面に現れると、その水量で周辺の沢の増水状況を図る尺度にもなっているし、融雪期には山荘の水源にもなるため、僕にとってはもっとも生活に密着した沢ということになるのだろう。
 いずれにせよ、雲ノ平にあって、水はとても貴重なものだ。近年の激しい気候変動によって極端な干ばつや大雨も増えるなか、雲ノ平での生活も、よりしたたかに考え抜かなければならないことも出てくるはずだ。
 朝露をすべて集めて回るか、見えない沢を引き込むか、はたまた空に浮かぶ雲を吸い込むか、空想は尽きない。


※このような状況下では無論「大きな水たまり」である池塘も2週間を待たずしてほとんど干上がる。

PEAKS記事

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