山と僕たちを巡る話|登山道のこと

雲ノ平山荘

山と僕たちを巡る話
第7回
登山道のこと

文・写真:伊藤二朗 
Text & Photo by Jiro ito

北アルプスの最奥、黒部・雲ノ平での暮らしから垣間見えること。
すべての山好きに考えてほしい、トレイルの現状とこれからについて。

 まだ2月下旬だというのに、灰色の空から生暖かい雨が降っている。家の裏の路地で、椿の赤い花が気怠そうに地面に落ちている情景や、どこからか漂ってくる沈丁花の香りなどが頭のなかに流れ込んでくると、冬の張り詰めた気分はいつの間にか霧散してしまう。このあいだ自動車で通りがかった八ヶ岳も、頂上付近に粉砂糖を振りかけた程度の雪しかなかったが、今年の夏も例によって、ジェットコースターのような気象に振り回されるのだろうか……。それにしても、一年が巡るのはなんと早いことだろう。
 ようやく重い腰を上げて、と言うべきか、今回から数回に渡って、登山道のことを書きたいと思う。登山道を取り巻く問題は、ことの重大さに対して世論の危機感や情報共有度がもっとも不足している事柄のひとつだ。それゆえに僕としても、書くのならばしっかりと多くの人にわかるようにしなくてはいけない、などと気負っていると、なかなか腰が上がらなくなる。考えすぎず、平たく話したい。
 いま、各地で登山道の崩壊が深刻化している。登山道は、登山に携わる大多数の人々の生命線ともいうべきものだが、適切に維持管理する仕組みが「まったくもって欠乏している」のだ。そもそも日本の国立公園は、昭和初期の設立の経緯からして「利用」に偏った観光地づくりの意味合いが強く、行政側にはほとんど自然保護の機能が備わっていないことをみなさんは知っているだろうか。
 国立公園とはいっても、地主は林野庁(※1)、河川は国土交通省、ダム周辺は電力会社、公共事業の受け皿は地方自治体、自然保護は環境省―と権限の所在が非常に混み入っており、それぞれの組織の思惑や目的に相当な隔たりがあるうえに、環境省がもっとも弱い立場に置かれているというのが現状だ。自然公園法という法律はあるものの、趣旨が禁止事項を羅列して人為的な自然破壊や開発を未然に防ぐことに偏っており、現場レベルで自然環境に直接関与する発想が乏しく、実力行使の手段を持たない。環境省のレンジャーが北アルプス全域で5人しかいないということが状況を端的に物語っているし、そのレンジャー達も後任者と顔合わせすることもなく、2年ごとに異動を繰り返してしまうのだから、もはや常軌を逸しているというものだ(※2)。かくして日本の国立公園制度は、有名無実に近い。
 そのうえで北アルプスでは、行政の不在を背景に発展した業種が「山小屋」だ。各地で登山道の開墾をはじめとした近代登山の基盤づくりを牽引し、山小屋はいまに至るまで登山者に衣食住の便を図り、登山道を管理し、遭難救助にも携わるなど、多くの公共的な役割を担ってきた。それが前述のように行政の力が及ばないなかで、大衆的な登山の環境を維持してきたのだ。

 しかし、その構図も限界を迎えつつある。昨今のゲリラ豪雨などの異常気象によって、加速度的な登山道の崩壊が各地で起きるなか、山小屋の経営環境も岐路に立たされている。物資輸送費、設備費の高騰、キャンプ道具の進化による小屋泊離れや、働き手不足、人口減少などの影響を受けて、いまの水準の営業を維持できなくなる可能性が高まっており、登山道はおろか、自らの存続の是非を心配する時代になっている。この状況を目の当たりにしても、行政は依然無力感を唱えるばかりだ。
 ここで考えるべきことは、山小屋にいくら情熱があったとしても、所詮は民間事業であって、経営が成り立つ限り存在しているにすぎず、登山道整備などについても法律的な義務や権限があるわけではないということだ(※3)。国立公園の公共性はどこに担保されているのだろう。ましてや環境省の推計値では北アルプスは現状でもイエローストーン国立公園の倍以上の利用者数を誇るらしいが、それはすなわち莫大な経済効果や雇用(同時に自然への負荷も)を生み出しているはずである。
 にもかかわらず、管理や保護に絡む予算は地を這うような低水準を維持しており、これでは山小屋が立ち行かなくなると同時に万事休す、環境省の予算も経済効果に見合わない極小規模を貫いたまま、閉店に向かうとでもいうのだろうか。環境省ではインバウンドの招致に注力しているようだが(※4)、このままでは大々的な宣伝を打っておきながら掃除もしないボロボロのテーマパークのようになってしまうだろう。
 なにかがおかしい。本来はプライドと喜び、経済効果も共存できるすばらしい仕事のはずである。逆説的だが、僕は環境省を非難したいわけではない。これは環境省の窮状の話なのだ。国民主権である以上、この状況をつくっているのは他でもない僕自身であり、非難を覚悟で言えば国立公園問題などに興味のない数百万人の登山者自身でもある。いまは現状をしっかりと共有し、自然のなかで過ごす喜びを知る僕たちが新しい形を見つけ、提案していくべき時期なのだ。(つづく)


※1)「地域制」の国立公園では土地の所有は林野庁、企業、個人など多様。
※2)日本の役所では2、3年でほぼすべての担当官が入れ替わる。ちなみにアメリカのイエローストーン国立公園の正規職員数は330人、イギリスのピークディストリクト国立公園は280人。
※3)スタッフ3人の小屋と同30人の小屋が同等の広大なエリアの道の整備をしていることは以前書いたが、すでに小屋の経済力、能力などによって登山道への関わり方に相当な温度差がある。
※4)国立公園満喫プロジェクト。外国人利用者1,000万人を目指す。主に交通機関で行けるエリアの国際観光化、リゾート化を図る一方、「登山道」エリアについては、梨のつぶて

PEAKS記事

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