山と僕たちを巡る話|登山道のこと(4)

雲ノ平山荘

山と僕たちを巡る話
第10回
登山道のこと(4)
~続・お役所仕事~

PEAKS 2019年7月号掲載
文・写真:伊藤二朗 
Text & Photo by Jiro Ito

北アルプスの最奥、黒部・雲ノ平での暮らしから垣間見えること。
引き続き、日本の国立公園、そして登山道問題の本質に迫る。

 (前回からの続き)
 はたして行政の機能不全はどこからくるのだろう?
 日本の行政組織はとかく責任や権限の所在を分散し、曖昧にしているため、そもそも前向きな責任感や目的意識が育たず、問題も巨大化するまで放置されてしまう傾向があるようだが、国立公園問題はその機械的な責任逃避体質と「生き物としての自然」を取り扱う実態が、あまりにも相性が悪いのではないかと思う。有無をいわさずに変容していく自然と、知識や経験、思い入れのない担当者や業者が遭遇するのは、例えば医療の知識がない素人がマニュアルだけで重病人を診察するのにも近い。
 僕の知る限り、公共事業(※1)で登山道を整備する際、ほとんどの場合が行政担当者にしろ業者にしろ、自然環境についてまともに教育を受けていない。登山道とはどうあるべきなのか、生態系や景観的配慮、耐久性の水準についての実践的なガイドラインがなく、総じて当事者意識が希薄なまま、純粋な「土木工事」に当たるのである(※2)。これも国立公園そのものに拠り所となる理念がなく、人材、予算、学術的アプローチ、自然環境に根ざした制度が欠乏していることの末端的な現れで、かなり根が深い。
 公共事業では発注金額が250万円を超えると競争入札によって業者は選定されるのだが、登山道整備工事での選定基準はというと「土建一般」業者で、ある程度の事業規模を有していることと、「自然環境に配慮しましょう」という程度のおざなりな注意書きがあるだけ。要するに選考基準がほとんどなく、土木工事としても厳密な構造計算が必要な人里の工事に比べ、評価基準がゆるい(※3)。そこに経験の浅い担当者と専門知識や思い入れがない業者が組み合わさればどうなるかは知れたことだろう。薄給で労働者を集め、手早く済ませて利益を確保するのみである。かくして、年間900万人もの人々が夢を持って訪れる北アルプスの登山道整備は、ある種の僻地労働として片付けられている。
 国立公園の特別保護地区といえば文化財でいうなら国宝に例えられることが多いが、国宝の絵画の修繕を近所の看板店に頼むようなものである。翻ってアメリカの国立公園でトレイルを整備している自然保護官は少年たち憧れの職業だといわれているが、なぜ日本では「僻地労働」なのか、そろそろ真剣に考えてみるべきだろう。900万人を動員すれば十分巨大産業なわけだし、その内0.001%の自然のなかで働くことを熱望する人材を、経済効果の0.5%(※4)を費やして雇うことは不可能ではないはずだ。オーガナイズする側の能力が低すぎて、いかに楽しく生産的な世界であり得るのか、可能性が追求されていないだけである。
 また、日本の国立公園では「登山道」の定義自体が曖昧で、行政の認識としては「自然発生的にできた道」であるから管理者不在というのが建前になっており、要は歴史の成り行きで猟師や開拓者たちが作ったものは、もとより行政サイドが責任を取るべき性質のものではないと暗に示している。その「管理者不在」の背後では山小屋などが選ぶ余地もなく登山道を管理しているのだが、昨今は登山道の荒廃が進み、山小屋だけでは支え切れない状況が明らかになってきたなかでさえ、極端な事案が発生するまで行政が関与してこないのは「ぎりぎりまで責任の所在を明確にしたくない」ということだろう。

 行政としては長い間、原生自然の保護というものを「なにもしない、なにもさせない」ように法的な規制をかけてきた。予算や人材を投入せずに「保存」し、そのうえでほどよく儲けようとしてきた結果が現行の有名無実な国立公園の管理体制に繋がっているわけだが、実態は100年もの間に莫大な登山者に利用されれば、それで済むわけはないのである。
 観光産業に寄与する資源として国立公園をとらえるにせよ、その資源を最大限活用するためには自然の美しさや登山道などの機能性あってこそ、というごく当たり前の考え方も存在していないのだ。もっともこれらについては声をあげてこなかった山小屋にも登山者にも、責任の一端はあるだろう。今後はだれに期待をするわけでもなく、どんな立場からでも良い、現状を把握して希望ある世論を起こしていくしかない。
 これから日本は激動の時代になると個人的には思う。人口減少、経済の不安定化、価値観や言語の多様化など……。日本社会に蔓延する雰囲気を見ると、依然として決まりごとは無条件に従うことが「真面目」な生き方だと信じている人も多いように思うが、僕はいよいよそのスタイルは潮時なのではないかと感じる。ルールなり制度、常識は本来社会の創造性に資するべきものであって、制度疲労を無視してまでしがみつくべきものではない。
 異動を繰り返す行政のみなさんも、いつまでもプロフェッショナルになれず、受け身な仕事ぶりがいつの間にか忖度の温床になってしまうという、おかしなカラクリには別れを告げてほしい。
 波風はすでに立っている。いまの船は沈没しそうだ。現実に背を向けるのではなく、どんな小さな船でも良い、自ら海原へと漕ぎだしたいものだ。


※1)富山県全域にひとり。

※2)念のためにいうと、労働作業員に偏見があるわけではない。結果としてまったく不適材不適所だったということ。また、すべての公共事業がこうだと主張したいわけでもない。そして珍しいことでもない。

※3)この地域で入札に参加する業者がほかにいない、というのが言い訳のようだが、発注する行政側にほとんど見識がなく、状況を改善する努力自体が基本的に行なわれていない。

PEAKS記事

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