山と僕たちを巡る話|地域制自然公園(1)

雲ノ平山荘

山と僕たちを巡る話
第13回
地域制自然公園(1)

PEAKS 2019年10月号掲載
文・写真:伊藤二朗 
Text & Photo by Jiro Ito

北アルプスの最奥、黒部・雲ノ平での暮らしから垣間見えること。
「山小屋ヘリコプター問題」の、先にある課題について。

 季節が移り変ろうとしている。
 停滞前線によって降り続いた風雨が上がった8月末の朝、日差しを受けた雲ノ平の草原はすっかり秋の色彩に覆われている。コバイケイソウやイワイチョウの葉が黄色く色づき、花畑のように鮮やかだ。だが、秋の色彩は春の彩りのように生命が充ちていく内発的な色ではなく、生命が眠りにつき、色褪せていく過程で残る余韻としての色だから、どこか心が静まる気配を持っている。人の一生でも、青年が見る夢と、老人が見る夢が異なるように。
 みなさんは7月末に僕が書いた「山小屋ヘリコプター問題」という文章をご存知だろうか? 今年の6月下旬、北アルプスの大半の山小屋に物資を届けていた航空会社のヘリコプターが相次いで故障に見舞われ、山小屋への物資輸送が一時的に途絶えたことではっきりと顕在化した、山小屋の経営基盤の脆弱性、その山小屋に依存している国立公園の構造問題、登山文化の持続可能性の低さを伝えようとしたものだ。
 これが当初想像だにしないほどの多くの人々(10万人を超える)が目にする運びとなり、さまざまな立場から意見や関心が寄せられたことは、僕自身大きな驚きを感じるできごとだった。いままではいわゆる観光産業として「爽やかな話題」ありきという雰囲気が支配的で、大手のメディアからは国立公園の構造問題などの社会的な話題が敬遠されるなか、少なくとも登山者の意識は、より冷静で積極的なものだということが垣間見えたような気がする。
 一方で登山業界、行政機関の関係者には複雑な気持ちを抱かせたかもしれないことは自覚している。深く踏み込めたわけではないが、山小屋への補助金の拡充や経営が困難になった小屋の公営化、業務委託の是非、あるいは脆弱な国立公園制度の財源確保のための入域料や入域規制、また山小屋のあり方に起因するマスツーリズムの助長など、センシティブな題材を詰め込んだのだから、責任を感じないほうがおかしいかもしれない。
 僕としては、登山文化が直面している問題がいよいよ「臭いものに蓋をしてやりすごせる」段階を超えつつあって、事業者と行政、管理者と登山者、世論と情報発信者がたがいに分断された関係性は終わりにするべきだと感じている。
 再三書いたことだが、日本の国立公園は自然保護的な要請より観光開発の要請が優って成立したため、行政は自然環境に能動的に関与する仕組みを持たず、予算や人材も極小規模ななか、最低限の開発規制の網をかける方法で自然環境の「現状維持」を図ってきた(当然、現状維持はできない)。
 そのなかで、北アルプスでは民間事業者としての山小屋が力をつけ、登山道の整備や遭難救助などの役割を担い、実質的な国立公園の運営主体になっているが、やはり自然保護より「商売」としての事業の維持・発展が優先されるため、ときには市場原理に即した消費主義的な登山のあり方を助長してきた。あるいは時代の趨勢のなかで経営が行き詰まると(あるいは商売が忙しすぎても)機能不全に陥り、結局は国立公園の持続可能な発展、管理体制という視点でみれば綻びだらけになっている。そして行政は、規制しつつ山小屋に依存し、さりとて権限は与えず、自らの責任の所在も曖昧、という奇妙な構図が現在まで続いてきた。

 国立公園の自然保護という、当たり前の尺度がなかなか見当たらないのである。
 登山文化にしろ、観光開発にしろ、地域振興にしろ、「自然環境」という資源を取り巻くエトセトラにすぎず、その自然環境を正面から扱う哲学、制度がなさすぎる現状は、どんな意味でも生産的ではないと僕は考えている。
 なにを言いたいかというと、僕はこの話を「地域制自然公園」(※1)のあり方論へと結びつけたいと思っている。それは現状見事に縦割りで、たがいに〝あまり関わりたくない〟関係者同士を、これからは協働関係に変えるしかない、という話だ。
 たとえば、いまのところ「山小屋の運営に行政が口を出すとろくなことにはならない」という考えが根強いことは僕も知っているし、同感でもある。環境省の職員が現場を知るチャンスがあまりにも少なく、実践的な経験則が働かないなかで「規制する」というのがこれまでは主な業務になっていたため、そもそもが建設的な話し合いをする関係性が乏しい(※2)。雲ノ平周辺の登山道整備の公共事業などをみても、質を管理する仕組みや能力がなく、もはや自然破壊に近いことがまかり通ってしまったりするのを見れば、不安を感じるのが普通というものだ(※3)。
 しかし現状を変えるには、環境省の職員がより実践的で創造性のある感覚を身につけ、たがいに規制する、されるというだけの関係を乗り越えなければ新しい可能性は生まれない。山小屋はむしろそれをサポートできないものだろうか?
 また、山小屋にとっても多様な意見や価値観にさらされる機会が少なく、文化として自然環境と調和したビジョンを共有し、良い意味での緊張関係や相乗効果をもたらしてくれるパートナーが存在しないため、個人事業レベルのスケールでしか物事を見られなくなっている部分も否定できない。
 登山者の多国籍化、経済的な背景の流動化、気候変動の影響など、いまの時代は既存の体制では手に余る問題が山積している。国立公園を巡る協働体制を、最大限ポジティブな想像力を駆使して作り直すことは、避けては通れないことだと僕は考えている。
 次回は素人の浅知恵ではあるが、地域制自然公園の可能性を思い描いてみたい。
(つづく)


※1)アメリカなどの「営造物公園」は土地の所有も含めて国立公園を一元的に行政機関が管理する。ヨーロッパ、日本などが採用する「地域制公園」は歴史的に多様な土地の権利者が混在していることから、土地の所有は一元化せずに自然公園にふさわしいと評価された一帯を公園に指定する方法。

※2)各種規制も机上の論理で、現場にはなじまないものも少なくない。

※3)富山県に委託された事業ではあるが。

PEAKS記事

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