山と僕たちを巡る話|デザインの力

雲ノ平山荘

山と僕たちを巡る話
第17回
デザインの力

PEAKS 2020年2月号掲載
文・写真:伊藤二朗 
Text & Photo by Jiro ito

北アルプスの最奥、黒部・雲ノ平での暮らしから垣間見えること。
自然環境から考える、建築とランドスケープデザイン。

 自然環境と建築デザインについての雑想を書こうかと思う。
 山小屋という、空間や時間を人に提供する仕事をすると、当然ながら、自分が直接来訪者に接することができる時間より、建築が人々に向き合う時間のほうがはるかに長い。その空間そのものが意志となり、メッセージを持つべきだし、僕がこの世を去ったあとに、世界と向き合うのはほかでもなく、建物である。雲ノ平山荘を建築する際に考えたことだが、建ててからはなおさらに、どのようにして「意志を持った場所」にできるのか、考えている。
 アウトドアのギアだけでなく、山と都市を同じ目線で共存させるためのデザインが僕らには必要だ。
 おおよそ人間の生活に関わるすべての物事に、デザインは密接に関わっている。
 建築、自動車、インテリア、食、衣服、土木工学や都市計画、情報空間にいたるまで、デザインの要素を抜きにして語れるもののほうが少ないはずだ。
 なぜ、人々はパリに行きたいのか、ということひとつを取っても、乱暴に言えば、それはパリというデザインであり、その空間の生み出す生活や雰囲気を味わいに行くのであって、建物がすべて白い箱になって、人々は黒い服を着て、食事は美味しいけどペースト状になっていたら、なんら魅力のない場所になることだろう。
 思いつくままに書くと、たとえば、奈良の唐招提寺に踏み入れば、古代の呪術的な重厚さと日本における仏教黎明期の張り詰めた精神性を感じる。建築や仏像の美しさもさることながら、その空間を息づかせているのは、人の意識だ。多くの「観光寺」のようにパッケージングされた感覚ではなく、僧侶たちの生活に根ざした想いが周辺の気配に滲みでている。ただ作業として庭を掃除しているのではなく、生命を育んでいる意識が隅々に行き届いているのだ。こういったことが、本当のデザインだ。
 また、以前に訪れたブルガリアの山奥のコヴァチェビッツァ(写真)という小さな村の佇まいに魅了されたことを思い出す。それは14世紀にオスマントルコの侵攻に晒されたキリスト教の人々が遥か山奥まで逃げのびて築いた村で、あらゆる道からあらゆる家、壁や屋根、窓にいたるまですべて灰色の石材で作られており、圧倒的な存在感で歴史の過酷さや、人間と自然の一体的な繋がりの強さを思い知らせてくれたものだ。
 物の「形」をめぐる意識が、社会や個人のアイデンティティーになり、言葉以上に雄弁に価値観や生活のあり方を物語っている。
 なにが言いたいのかというと、考え方や人の想いというものは、一般的に考えられている以上に「形」として受け継がれている部分が大きいのではないか、と僕は思っているのだ。形から考え方を導かれることもあれば、考え方が形を生み出すこともある。それは音楽のように見る者を気づかないうちに物語の世界に引き込む力を持つ。そして、音楽のように、異質な音が混ざるごとに、物語の魔法は消えていく。
 そう思えば「歴史のある文化」「自然保護」「持続可能性」「美しい国」と大義名分を掲げたところで、実際に守り伝えたいと思える形がイメージできなくては、機能しないのは当たり前だ。

 近代以降の日本では、とにかく西洋に追いつき追い越せ、をスローガンに据えて経済的な繁栄を築いた一方で、なにを社会の基調となるデザインとするのか、という前提が曖昧で、自分たちの思いを託すことのできる「形」が不在になってしまっている感がある。
 日本美の象徴と唱われながら、なし崩しに消滅し続ける京都の街並み。昨今はバイオマス発電、メガソーラーなど、再生可能エネルギーの名の下で短期的な荒稼ぎを目論んだ事業者が大挙して大規模な森林破壊が起こり、あるいは国立公園の入り口付近の沢が見事にコンクリートでガチガチに固められた用水路のようにされるなど、ある種倒錯したような事業がまかり通るのも、そもそも形あるものにアイデンティティーを見出さず、豊かさの指標が金銭的な尺度に偏りすぎている問題が根底にある。社会をデザインするということ自体が、「趣味の問題」として片付けられ、公益性として見なされていないのだ。
 良いデザインは、調和と持続性を生むものだと僕は考える。
 ドイツにある某大手自動車メーカーの工場は、自然や歴史遺産との共生、景観へのインパクトを最低限に抑えることに主眼をおいて建設され、屋上緑化、周辺の広大な緑地帯の整備から、生態系の保護、省エネルギー化、自前の再生エネルギーの効果的な利用など、考え得る限りの工夫を凝らしている。結果的に、田舎のアイデンティティーを破壊せずに、地域の暮らしに新しいアイデアと活気を与え、単純に都市とも田舎とも括れない、新しい社会のバランスを提示するモデルになっているという。思想と科学がデザインする、自然環境と文明社会の共生のあり方である。
 これをそのまま鵜呑みにするわけではないが、少なくとも、都市にしろ、田舎にしろ、アウトドアカルチャーにしろ、最低限後世に胸を張って伝えるべき「形」を伴った文化にしなくては、やがて飽きられ、消費され、捨てられてしまう。
 今後国際化が後退することはないだろう。アウトドアカルチャーとして、生活文化として、僕たちの隣人になるのは、ニュージーランドやネパール、アメリカ、ヨーロッパアルプス、パタゴニア、北欧etc……といった優れたデザイン群である。さて、これから僕たちは世界に向けてなにを見せつけられるだろうか?
 僕は山小屋を「人間社会と自然環境の新しい関係性を創造する場所」としてデザインしたいと思っている。

PEAKS記事

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