山と僕たちを巡る話|コロナの物思い

雲ノ平山荘

山と僕たちを巡る話
第20回
コロナの物思い

PEAKS 2020年5月号掲載
文・写真:伊藤二朗 
Text & Photo by Jiro ito

北アルプスの最奥、黒部・雲ノ平での暮らしから垣間見えること。
この世界を根本から変えつつある、新型コロナの影響について。

 満開の桜に、季節外れの雪が降り積もった3月29日、志村けんが亡くなった。大多数の人々の思い出の中に君臨した、輝かしい爆笑の時代のカリスマが、このような形で去ることは想像し難かった反面、酒とタバコに明け暮れたロックな生き様が遠因していることを思えば、最敬礼で見送るしかない、とも思う。
 僕の記憶の中では、お笑い番組を見ることを両親に制限されていた子供時代、ドリフ大爆笑などをこっそりと盗み観ては、世の中にはこんなに楽しくて華やかな世界があるのだと、憧れの気持ちを抱いたものだった。
 花と雪、喜劇王の死、伝染病…街からは人影がなくなり、物音が遠のき、折り重なる種々雑多なイメージに覆い隠されていた、剥き出しの大地が、人々の生命の在処が、忽然と浮かび上がるように感じる。今は、この事態に学び、考える時期だというしかない。

 歴史上、大規模な感染症の流行は、その都度社会のあり方やパワーバランスを根底から覆してきた。14世紀にはモンゴル帝国の勢力の拡大に伴って各地でペストが流行し、ヨーロッパでは人口の半数前後を失ったという。そんな中、封建領主に支配されていた農奴が急速に減少したことで労働力不足が起こり、結果的に労働者の地位の向上につながった。それが民主主義の萌芽となり、また少人数でも効率的に生産できる畜産の普及を促したらしい。ちなみに、この時も巷には様々な流言が飛び交い、スケープゴートとしてユダヤ教徒が迫害されたり、魔女狩りが猛威を振るうなどした。
 16世紀にはアメリカ大陸を侵略したスペインの植民者が天然痘をもたらし、疫病に備えのないアステカ帝国、インカ帝国を戦争するまでもなく壊滅させた。19世紀のコレラの流行はヨーロッパの公衆衛生観を抜本的に見直す契機となり、上下水道の整備、道路の幅員確保など、現代につながる都市工学の確立につながった。遥か昔にギリシャの都市国家アテナイやローマ帝国を衰退させたのも、天然痘やチフスが原因だったという。
 これらの事例に共通しているのは、感染症の流行の背景には常に、文明の発展による都市化(人口過密化)や国際交易、戦争などがあり、発展と危機は表裏一体だということだ。そして感染症との戦いが医療の発達を促す一方、ウィルスや細菌もそれに負けまいとして変異を繰り返して対抗する。これは、広義な意味で言えば、環境問題などにも通じる「自然と人間社会」の果てしないせめぎ合いということにもなるのだろう。

 今回のコロナ禍によって、僕たちの社会はどう変化していくのだろう。

 今世界は、未だかつて僕たちが経験したことのない全世界鎖国状態だ。貿易が完全に停止しているわけではないが、国際的な交通インフラに依存するあらゆる産業やライフスタイルは、当面相当に難しいかじ取りを強いられるのだろう。日本では自給率1割のエネルギー資源問題をはじめ同4割程度の食料事情など、事態の推移によっては生活は根本的に脅かされかねない。また、国外はおろか、国内旅行や外出の自由も制限されれば、自宅やその周辺の生活環境がいかに人々の精神を支えられるような豊かさを持っているのかということも重大な要素になる。生死の問題に晒されれば、無駄の多い旧弊な労働観や社会システムも露わになるだろう。今こそ自分の足元に何があるのか、問い直さざるを得ないということだ。

 山はどうなっていくのか。山小屋の人間としては当然考えはじめている。

 山小屋の運営・登山の環境はほぼ間違いなく大きく影響を受ける。間近に迫ったゴールデンウィークが現実的な試金石になると思うが、山小屋が感染症対策に有利な業種ではないことは容易に想像できるだろう。交通インフラが機能していなければ山には来れないし、登山者が来ても従来通りの営業を貫けば、混雑期は絵に描いたような密集空間が出現する。仮に建物の保守要員だけ駐在して休業するか、最低限のスタッフ数で宿泊人数をしぼって営業しても、キャンプ客が押し寄せたり、登山道の崩壊や遭難対応をしなければならなくなれば、現場は破綻する可能性が高い。
 ただでさえ近年はキャンプ場のオーバーユースが深刻化しているのに加え、コロナ問題でキャンプ場利用者は増加していると言われる中、利用を制限する仕組みや権限はどこにもないのだ。
 営利事業である以上、山小屋経営はキャンプ場の管理だけでは成り立たず、一定以上売り上げが落ち込んだら施設の維持も困難になる。かたや行政にはマンパワーの不足以前に現場を知っている人材がほとんどいない。
 ヘリ問題にもつながる話だが、山小屋が機能しなくなったら、誰が公共財産としての国立公園を管理するのか、加速度的に考える必要に迫られるかもしれない。

 歴史的に感染症や戦争で技術や社会システムが発展するというのは、危機によって潜在的な問題が凝縮されて短期間に突きつけられるためだ。そしてそのような時にこそ社会の地力が露呈する。
 僕たちの足元には何があるのか。

 全世界が路頭に迷おうとしている今、取り立てて山小屋を注目するいわれなどどこにもないが、この緊張感を逆手にとって、多くの人が「考える」ことで生まれる新しい可能性には期待したい。そして個人的には、金のことはさておいて、静かに自然と向き合う千載一遇のチャンスなのかもしれない、とも思っている。

2020年4月3日 執筆


PEAKS記事

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