山と僕たちを巡る話|これからの話

雲ノ平山荘

山と僕たちを巡る話
第21回
コロナの物思い(2)
希望を紡ぐ

PEAKS 2020年6月号掲載
文・写真:伊藤二朗 
Text & Photo by Jiro Ito

北アルプスの最奥、黒部・雲ノ平での暮らしから垣間見えること。
「いまは自粛」の先を見据えた、「いまこそ」活発な議論を求ム!!

 さて……まだまだコロナ禍だ。登山業界も自粛である。
 いまはそういうときで、僕も現状の登山自粛には賛同の意を表するところから書き始めたい。しかし、それはある程度明確な基準に基づいた時限的な措置であるべきだし、同時に社会の存続のためにさまざまなオプションも考えなければならないと思う。
 そもそも、緊急事態宣言の趣旨は、感染拡大のスピードを鈍らせ、ピークを先送りにすることで医療崩壊を防ぐこと。これには協力しなければならない。いわば時間稼ぎをしている間に、未知なるウイルスについての知見を高め、今後コロナウイルスと共存できる医療リソースや社会体制を整えるという目的のためだ。
 ほとんどの感染症専門家が、ワクチンや特効薬の開発には最短1年から2年かかるか、あるいは最悪できないかもしれない。ワクチン以外の明確な出口は国民の6割以上が感染し、集団免疫を獲得するしかない、という厳しい見解を示している。撲滅はほぼ不可能だと。そうなると、長期戦になるからこそ「コロナ罹患死のリスク」と、一説によると失業率が1%上がるごとに自殺者が2000人ほど増えるともいわれる「経済死」のリスクのトレードオフの関係を忘れてはいけない。なにをもって人の生命を守るというか、である。
 事実上、僕たちにはウイルスと共存する覚悟が必要なのだ。一部でいわれている、医療崩壊を回避しつつ、むしろ高齢者などの健康面に不安のある層に自粛を促し、健常者は上手にコロナウイルスに対する免疫を獲得していくことが最善策だという主張は決して否定できないと思う。言わばなにが正解かわからない以上、柔軟にトライアンドエラーを繰り返しながら状況に応じた適正値を導き出すしかない。
 そして、判断の精度を上げるためには疫学的なリスクと社会学的なリスクを精査しなければならないわけだが、現状日本では、情報分析、共有、施策実行の動きが著しく不明瞭かつ遅いことが混乱を助長してしまっている(※)。PCR検査の少なさで対策の根拠となるべき統計が機能せず、経済支援の脆弱さ、IT化の遅れ、自粛(雰囲気)依存などで外出規制も締まらない。専門家自らが、すでに数十万人もの無症状感染者がいることを示唆している状況では、感染の封じ込めは事実上放棄しているようにも見える。僕たちはなにを目指しているのか……ベタな意見だが、経済も感染症対策も共倒れにならないように、改めて僕たち一人ひとりが、頼りない政治機構へのプレッシャーを強めなければいけないと感じる。
 現在登山業界では、都市から地方への感染拡大リスクを説明するために、脆弱な地方の医療体制や高齢化の問題、救助隊員のコロナ罹患リスクなどを例示して自粛を呼びかけている。
 繰り返しになるが「いまは」そうするべきだが、それは時間稼ぎにすぎない。次、どうするのか。

 登山の可否以前の問題として、僕は不用意な地方保護論は、裏を返すと地方が都市から経済的に独立していない限りは、地方の自滅を招くのではないかと心配している。緊急事態宣言が解除されたとしても、高い確率でウイルスと膨大な無症状感染者はこの世に存在し続けるわけであって、過度なコロナ恐怖症と都会人忌避の観念は大きな矛盾となって顕在化するだろう。明確な基準が必要というのはこのことだ。時間稼ぎをしているいまこそ、不安感を煽るのではなく建設的に、地方における医療体制の準備・分析も含め、ウイルスとの共存モデルを議論するべきではないのだろうか。少なくとも、地域ごとのリスク評価を進め、感染者を受け入れ可能か不可能か、どのリスクを回避し、許容するか、なにを妥協点とするのか、具体案を考えなくてはならない。法律がどうであろうが、合理的な移動規制も視野に入れなくては、感染ありきの都市部に全国が歩調を合わせ続けざるを得なくなる。登山も地域経済を支える大きな要素だと思えば、自粛に満足している場合ではない。
 ひとつ思うのは、やはり「自粛」という概念自体が危ういということだ。基準も強制力もないから、精神論が根拠になり、感度の鈍い人に合わせるとなると必要以上に危機感を煽りつづけなければ効力が維持できない。すると今度は過敏な人がヒステリーに陥り、正義の名のもとにデマや中傷、拡大解釈を生む。大衆心理はデマや中傷を恐れるあまり、ヒステリーを基準に同調圧力を形成する……という具合に「低き」に流れる作用で、混乱が広がっていく。不安を煽るのには同調圧は役立つが、不安の解除には合理的な根拠が不可欠だ。
 そんなことで、明確な基準がないまま登山自粛論や登山迷惑説がひとり歩きすると、解除する根拠が見出せなくなる。曖昧に緊急事態宣言が取り下げられたとき、登山の可否になんの判断基準もなく、言い知れぬ気まずさだけが残るような状況を避けるよう議論を進めたい。コロナ鎖国状態の世界では、アウトドアは明らかに大きな希望なのだから。
 最後に、重大な危機に陥っているからこそ、事態を多面的に見るべきだと思う。ここで解除不能な不安感を放置してしまうと、経済死もさることながら、なおさら地域格差は広がり、スキンシップ恐怖症で出生率は下がり、引きこもりを増やし、国際競争力も低下し、多様性や文化が衰退する一方で暴力的な公共事業が猛威を振るうなど、長期的な混乱を誘発しかねない。大きな危機の打開には、それに見合うだけの想像力が必要なのだ。
 改めて、冷静に選び取ることで、希望を紡ぐことを提案したいと思う。


※)個人的にも国立公園の現場で嫌というほど経験したが、日本社会では縦割りや上下関係による思考停止、専門性度外視の人事異動、実社会と統治機構の乖離、監視機構の不在、当事者意識の欠落などにより「決して成功しない伝言ゲーム」が常態化している


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