山と僕たちを巡る話|保存食作戦

雲ノ平山荘

山と僕たちを巡る話
第24回
保存食作戦

PEAKS 2020年9月号掲載
文・写真:伊藤二朗 
Text & Photo by Jiro ito

北アルプスの最奥、黒部・雲ノ平での暮らしから垣間見えること。
この夏を乗り切るため、その先の世界に対応するための試み。

 ビル・エヴァンスのアフィニティを聴きながら、窓外の明るい草原を眺めている。ひさしぶりの軽やかな青空に、ずぶ濡れな気分が解き放たれる。
 7月上旬の入山から昨日まで、朝日も、夕日も一度も見ることのない日々。雨季の東南アジアでさえももう少しは日差しがあるのではないか、と思うほどの長雨だった。雲ノ平の草原では、雨のなかでもかろうじて咲いた花々が、徹底的に風雨にさらされて花弁が破れ、脱落し、真夏の花畑は夢の彼方に沈んでしまった。多くの植物が、日照があまりにも不足して発育不全になり、イワイチョウなどは芽吹いた矢先に黄葉を始めている。
 本当に、なにもかもがいままでとは違うから、「いつも」を探してジタバタしても仕方がない。地球が変われば、人も変わるのだ。
 雲ノ平山荘は、予定通り7月20日から営業を開始した。
 とは言っても、コロナに豪雨、地震にヘリ問題と、波状攻撃を受けているような状況で、まさに塹壕戦、あるいは匍匐前進しかできない。それでも逆境をチャンスに変えられる部分も少しはあって、ヘリの荷上げの機会が減ったことで燃料や電力を合理的に節約する仕組みを改めて構築したり、保存食を活用し、むしろ食事の質は向上させるなど、原点に帰って営業環境を見直す機会にはなっている。今回はそんなところを書いてみたい。
 まずはヘリコプターの荷上げだが、結局今年は本格的に物資輸送をできる航空会社(※1)との契約更新がままならず、その代わりに、昨年僕が発信した「山小屋ヘリコプター問題」に関心を寄せてくれたノエビアアビエーションという別分野の航空会社からの協力打診を受けて、機体の中に荷物を積載する方法での輸送に切り替えて行なっている。これ自体は思いのほか効率が良く、今後の明るい兆しといえるのだが、燃料の輸送が実質的に困難になったため(※2)、太郎平小屋に相談して必要最小限の量を高天原山荘まで輸送してもらい、そこから担ぎ上げることになった。
 当然そうなると、燃料消費をどこまで切り詰めることができるのかが大きな課題になる。山小屋でもっとも消費が多いのが軽油で、次いでプロパンガスだが、軽油については発電機を稼働させる時間をどこまで減らせるかが鍵となる。
 雲ノ平山荘はもとから、それなりに省エネルギー運営をしており、6kwと3kwの2機の比較的小さな発電機と、太陽光発電を使い分けている。晴天時は太陽光だけでも照明やバイオトイレなど、ほとんどの電力は賄えるものの、もっとも消費電力の大きい冷凍庫だけは発電機を回さないと運転できない。そして、冷凍食品を保存するためには1日に最低5~7時間は発電機を回す必要があるのだが、ふたつ使っていた冷凍庫をひとつだけで切り盛りすれば、燃費が良い3kwの発電機だけでもかろうじて電力をまかなえるため、冷凍食品を可能な限り減らすことに取り組んだ。さらには、ヘリコプターで運ぶ荷物の重量を減らすことに繋げる狙いもある。
 ここでこそ人類の叡智の結晶である保存食の出番である。
 保存食といえば、15年ほど前にアルゼンチンの山を旅していたとき、電力を使わない素朴な佇まいの山小屋で出された、乾物だけで作られた夕食がじつにうまかったことを思い出す。ドライトマト、粉末ガーリック、パルメザンチーズなどで味付けされたパスタだったが、これこそ山小屋の料理だと感心したものだ。ちなみに彼らの輸送手段は馬で、明かりは蝋燭である。若いカップルが管理していたその山小屋の、薄暗いけれど、集った人々の談笑の声絶えない食卓には、心に沁み入る豊かな時間が流れていたものだ。また、2回ほど訪れたポルトガルでは、伝統の干し鱈料理がいまも日常生活の端々にまで根付いている。これがじつに美味いのである。

 そんなことで、春先から急速に立ち上がった「保存食作戦」は妻の麻由香が、山荘スタッフで管理栄養士のMさんと、同じくスタッフで熟練の山小屋料理人Y氏の、強力なサポートを受けつつ進められた。これにより導入されたのは、次のようなものたちである。干し鱈、海藻サラダ、卵、お麩、ランチョンミート、全粉乳、各種豆類、ドライフルーツなど……。
 結果として、朝食については冷凍食材を完全に廃し、干し鱈のトマト煮、漬け卵、麩の煮物、海藻サラダなどの「乾物御膳」ともいうべきものが完成した。味、栄養価共に格段に改善させることができたと胸を張れるできばえである。ちなみに干し鱈は父が75年ほど前に山小屋を始めたころに、不可欠な食材のひとつだった。時代は回るというものである。
 その他、おつまみメニューは缶詰やレトルト食品の研究を進めているが、これまた非常に奥深い世界だし、冷凍食品のスイーツなども順次手作りに変える予定である。
 プロパンガスは今年についてはそもそもの宿泊者数が少ないので、消費量は格段に少なくなるし、昼の食堂の営業も限定されているため、節約を意識づける程度の対応にとどまっているが、来年に向けてはシビアな計画性が問われそうである。先日から開始した、高天原からの重量40㎏のボンベ歩荷は、なかなか身体に堪えるのだ。
 変わりゆく世界で、生きるのが大変な時代になるかもしれない。けれども、人類というやつは、どのみち「すべて」を経験するしかないのではないか、という気もする。されば、おもしろきこともなき世をおもしろく、である。


※1)機体の下に荷物を吊り下げるための専用の機器がついているヘリコプターを保有していて、その機体の操縦技術を持つ会社。

※2)「山小屋ヘリコプター問題」は去年以降、業界や行政を挙げての大きなアクションになりつつある。このことはまた別途書きたい。


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