山と僕たちを巡る話|再生の旅

雲ノ平山荘

山と僕たちを巡る話
第26回
再生の旅

PEAKS 2020年11月号掲載
文・写真:伊藤二朗 
Text & Photo by Jiro Ito

北アルプスの最奥、黒部・雲ノ平での暮らしから垣間見えること。
例年よりも遥かに早くすぎ去った雲ノ平の夏。
“これから”を育むオフシーズンがはじまる。

 一歩足を踏み出すごとに、木道の上のバッタが一斉に放物線を描いて飛び上がる。冷気をまとった秋風が枯れ野を柔らかに揺さぶり、池塘に張った薄氷は朝日を浴びて鋭利な光を投げかける。ナナカマドの葉は今年は色づかず茶色に縮れてしまったが、その奥には真っ赤な果実が鮮やかに輝いている。
 生命が眠りにつく気配。
 コロナ禍にはじまり、登山自粛の混乱や予約制の導入など山小屋のビジネスモデルの転換、さまざまな対立や連帯を生み出した今シーズンが、暮れようとしている。多くの人々が当たり前だった日常を失うなかで、それぞれの孤独や苦悩と向き合い、再生の旅をはじめている。
 雲ノ平山荘にいる僕たちにとっても、より豊かに生きていくヒントを探す日々であり、それはかけがえのない出会いをもたらす期間になった。コロナ禍は多くを失わせたが、それは固定観念のしがらみに閉ざされていた、真っさらな旅の地平を取り戻すチャンスでもある。本来、僕たちは、常にこうしてなにもない時の地平線を旅しているだけなのだ。

 今朝は最後の滞在アーティストの木彫作家の加々見くんと、画家のsoarさんが帰途についた。アーティストと山小屋は、立場こそ違えども、たがいに人生における目標や意思をさらけ出しながら向き合う日々のなかで、深い精神的なつながりを感じる間柄になった。別れの挨拶を交わすと、めずらしく、若いころのようにどこか清々しい感傷的な気持ちに包まれた。
 彼らを見送ったあと、季節柄山荘のスタッフも少なくなったこともあり、ひさしぶりにひとりでキャンプ場の清掃に向かった。秋の透明な日差しのなかを漂うように歩きながら、さまざまな物思いが胸裡をかすめる。
 アーティストたちが無心に制作に向かう姿。刻一刻と彼らの手先から、他人には想像もできないイメージが紡ぎ出される光景。それは、探検家が未知の森や山に挑む衝動にも通じている。地図などない、予定調和は通じない、瞬間ごとに自分の存在と世界をたしかめながら、切り開いて行くもの。芸術は、人が自らに内在する「自然」に帰っていくひとつの手段なのかもしれないと、ふと思う。
 昨夜、加々見くんsoarさん、映像記録を受け持った赤錆氏と僕で、夜遅くまでなんとなく別れを惜しんで酒を酌み交わしたときのこと。その少し前から加々見くん、赤錆氏とは「今度いっしょに冬の雲ノ平に来てみよう」という話をしていたが、日頃から雪山に親しんでいる彼らとは違い、僕は初心者レベルなのでそれなりの訓練が必要であろう、ということになり、当面の候補地は、北アルプスならば鹿島槍周辺か、はたまた八ヶ岳、東北のどこかの山も旅情があって良いのではないか、それを言ったら真冬の屋久島も雪が降るが……などと話していると、soarさんが「それならば私も行きたい」と口を挟んだ。彼女にとって、屋久島は自然の世界に目を開かれるきっかけになった場所であり、これまでに9回ほど足を運んだが、なぜか本格的な山登りはしていないのだという。それならば、まだ見ぬ巨木にでも会いに行こうか……。

 その旅が実現するかどうかはさておいて、コロナ禍がなければ彼らは雲ノ平に来ていたかどうかも分からず、この出会いを通じて新しい旅の扉が開かれると思うと、いまさらながら感慨深い。この世界には破壊と誕生が、出会いと別れが常に表裏一体に存在している。山河も、人間も、感染症も自然であって、常に明日は未知でしかないという当たり前のことを、人は忘れがちだ。
 見上げれば空は無性に蒼く、遥か上空でどこへ行くともしれない飛行機が、白い雲を一筋引いている。水晶岳の山裾のダケカンバは紅葉をはじめ、緑色の斜面にリズミカルな黄色いドットを描き始めている。
 10日後には僕たちも下山である。今年は下りてからが正念場を迎えそうだ。この春から山のシーズンで得られた経験や成果を、どのように生かし切れるのか。ヘリコプター問題、アーティストインレジデンス、プロダクト開発やイベント開催等々、それらもさまざまな出会いを生み出し、新たな出発の連鎖になることだろう。
 再び昨夜の飲み会の話だが、ひとしきり酔いも回ったころ、芸術と旅の話が高じて僕が口走ったことがある。数年前に奈良を旅していたときに印象に残った古い仏教の教えのこと。かなり意訳すると以下のような意味合いだ。
 ――物事の大きさや小ささ、長さや短さ、全体と部分、社会的な地位や名声の有無、そういった常識的な尺度で世界の価値を図ることをやめたとき、お前にはなにが見えるだろう。宇宙は大きいから偉大で、アリは小さいから卑小なわけではない。すべての錯覚を超えたとき、我々は何者なのか――
 自然や卓越した芸術作品に触れるとき、少なからず僕たちはこうした根源的な意識に立ち返るのではないか。そういう文脈で言ったような気がする。
 それを聞いた加々見くんが、どういうわけか、満面の笑みで「じろやん!(妻がたまにつかう僕の愛称)」と言いながら僕の背中を叩いた。きっと、彼の自然観に響くものがあったのだろう。心が通う瞬間というのは、本当に不思議なものだ。
 ちなみに、加々見くんが倒木から切り出した木塊を2週間掘り続けて完成した作品は、原野に憩う旅人の彫像となり、soarさんが描いたのは、壮麗な色彩をまとった山岳地図のような絵画であった。
 僕たちはみな、どこにもたどり着くことのない旅をしている。そして、たどり着かないということこそが、この旅の原動力なのだ。


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