山と僕たちを巡る話|もうひとつの小屋開け

雲ノ平山荘

山と僕たちを巡る話
第27回
もうひとつの小屋開け

PEAKS 2020年11月号掲載
文・写真:伊藤二朗 
Text & Photo by Jiro Ito

北アルプスの最奥、黒部・雲ノ平での暮らしから垣間見えること。
夏山シーズンも終了し、冬ごもり前の恒例行事の話。

 毎年山から下りて神奈川にある自宅に帰ってくると、あらためてそのシーズンの天気について振り返ることになる。「室内にどれだけカビが生えているか」が重大問題だからである。カビの発生量は留守中の湿度・温度が決定づけるし、内外装やガス、水道、電気などの生活インフラの損害もたいがいは天気次第である。それらの損害の程度に応じて我が家の「小屋開け」作業の負担の大きさも決まるのだ。
 昨年、一昨年は秋の長雨や台風などの影響で、文字通り「腐海に沈んだか……」とでも言いたくなるような無残な状況だった。板の間は全面がうっすらと白っぽくなり、うっかり梱包し忘れた革製品などは粉砂糖をかけすぎた焼き菓子のような有様。雨漏れで内装の土壁が崩れている場所すらもあったものだ。こういった被害を最小限に抑えるために、入山前には、衣服や家電製品、食器類など、あらゆるものを袋詰めにして乾燥剤を入れて、比較的被害の少ない二階に移動し、換気扇、空気清浄機、サーキュレーターを全稼働させるなど、入念な﹁小屋閉め﹂作業を行なうわけなのだが、例年まったくの無傷ということはまずはあり得ない。
 雲ノ平山荘は2010年に建て替えた際に、小屋開け、小屋閉め作業を可能な限り合理的かつ簡便に行なえるようにしたのに対し、大正13年に建てられた借家である我が家のそれは、年々作業量が増大の一途をたどっている。それでも、好きで暮らしている家だから、今年も黙って掃除に明け暮れるというわけだ。思えばコロナ禍で引きこもりがちになった時期にとりたてて大きな精神的なダメージを受けずに済んだのも、元からのインドア的な生活スタイルと、自然素材に満たされたこの美しいボロ屋、周辺ののどかな景色のおかげさまというものであった。
 前置きが長くなったが、今年は8月からの天気の良さと、比較的涼しい気候が幸いして、この数年来では家の状態は大分マシな方だった。
 長野から車で移動して、びっくり箱のフタを開けるようにソロリと我が家の玄関を開け、下山後初めて内部を確認するときの心境は毎回格別である。本来長い山暮らしを終えて我が家にたどり着いたからには、ひとまずソファーにでも身を埋めたいところだが、そうはいかない。「なにになら触れても良いのか」というところからはじめなければならず、ひとまず床のカビが足に付着しすぎないように抜き足差し足で様子を見て回る。少しも掃除をしないうちは、食事をとることはおろか、腰を下ろすことも、眠ることすらできないのである。ガスや電気を復旧し、壁や床、机を拭いて最低限の食器などを取り出し、音楽ぐらいは聴けるようにオーディオ機器を二階から一階に下ろして配線を繋ぐ。定番のブライアン・イーノでも流せば、ようやく買ってきた弁当ぐらいは食べますか……という気分になるのだ。

 それから数日間は引き続き梱包を解き、家電製品を元の位置に戻し、ホコリやらカビでくしゃみが出なくなるまで掃除を繰り返してようやく日常は回復される。まことに永遠の引越しを繰り返すような気分にもなるというものだが、この生活にも特有の効能はある。定期的に洗いざらい家財道具をひっくり返すことによって、自分の生活容態を総合的に再認識、再構築する機会になるからである。
 長い留守を経て少しばかり他人のような目線で我が家を見回すと、さまざまな無駄や改善点に気がつく。去年までは「まだ必要だ」と思い込んでいたスツールは結局3年も手を触れていないとか着ない衣類、収納効率の悪い押入れ、読むことのない本の数々など。その都度軽い断捨離をし、収納性の改善を図る。場合によってはすっかり忘れていた昔の手紙などにバッタリと出くわし、遠い記憶に立ち返ることになったりもする。そして、自分の一生でできることの量をふと逆算して考えてみたりする。果たしてあと何回この引越しをするのか、自分の人生で関わり切れる物や場所とは、人々とはどれほどのものなのだろう……と。
「小屋開け」作業がひと段落して、ようやく山小屋の残務処理を再開し、友人への帰宅報告、オフシーズン中の各種プロジェクトの計画などに向き合えるというものだ。
 それにしても、下山して改めて世の中の様子を眺め回してみると、コロナ禍によって引き起こされた怒涛のような変化のなかで、春先から危惧していたさまざまな歪みや混乱がより強く顕在化していることにも気づかざるを得ない。世界のさまざまなレベルの対立の激化や、経済の混乱、日本での自殺者の増加、身近な店舗の廃業、そして結局強者の論理に集約されていく「イノベーション」。いくら過剰な都市化や競争社会、規模の経済、情報化などを憂えても、まさにその論理に支えられて存在する﹁世界人口﹂という大きな影は、僕たち自身だ。
 あらゆる矛盾を解消することはできない。すべての幸福にも関わりきれず、すべての不幸にも関わりきれない。きっと、目の前の現実を少しだけ美しくすることができるだけだ。
 ただ自然がそこにあることと、ボロ屋を掃除する性懲りもない自分がいること。世界の裏側に旅に出られない現実と、世界の裏側では会えない友達がそばにいること。
 さて、なにに時間を使おうかな。


PEAKS記事

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