リポート:伊藤二朗
北アルプスの山小屋「雲ノ平山荘」経営者。1981年生まれ。東京都出身。幼少より黒部の源流で夏を過ごす。2002年に父・伊藤正一が経営する雲ノ平山荘の支配人になる。2010年、日本の在来工法を用いた現在の雲ノ平山荘の建設を主導し完成させた。
記事を掲載した2日後、小屋から10分ほどのところにある携帯の電波圏内に行き、世論の反応に触れることができた。正直なところ、予想を超える反響の大きさだった。
読んでいただいた皆さんには、この場を借りて心から感謝を申し上げます。
まずはその後のヘリコプターの状況について報告したいと思う。
T航空は7月末の段階でヘリコプター全機が復帰し、天候に恵まれたこともあって8月初旬にはそれまでの遅延を解消した。雲ノ平山荘の物資も8月4日の段階で、ようやく全て受け取ることができた。最初のヘリコプター故障の報を受けてから、実に40日ぶりに事態はひとまずの落ち着きを取り戻した格好だ。
また、前回の記事に対して起こった大きな世論の反響を受けて、マスコミ各社も各地でこの件を報道し、山小屋の物資輸送、国立公園のあり方に関してかつてないほど活発な議論が展開されつつある。僕としても、世論の力というものを、まざまざと感じさせられている次第だ。
物資が全て届いたなどというと「なんだ、結局大したことではなかったのだな」と言われるかもしれない。しかし、前回書いたようにこの問題の本質は、近い将来に、多数の山小屋へのヘリコプターによる物資輸送が構造的、経済的な理由で成立しなくなる可能性や、物資輸送をT航空一社に依存しているリスクの大きさであって、それはそのまま国立公園、登山文化の存続の危機という大きな問題につながっている。
皆さんにはどうか、継続的にこのことを議論していただきたいと願っている。
今回は、僕が垣間見た世論の主要な反応、反論に対して、個人的な見解を書きたいと思う。
SNSなどを見ていると、全体として日本の社会では国立公園の制度や経済的な背景がほとんど認識されていない傾向があると感じたので、議論の精度を高めるために、主にその辺りについて触れたい。
前回より少しストイックな内容になるが、興味を持った方はぜひまた周囲の人々とシェアしていただけたら幸いだ。
まず、前回の記事の中で、以下の部分に多くの意見をいただいたようだ。
◎同時に民間事業者であるヘリコプター会社が上述のように「ハイリスクローリターン」な山小屋の仕事を敬遠するのは経営判断として必然的なことでもあるため、行政がヘリコプター会社に対して助成金を出し、事業として持続可能な体制を構築する。また、物資輸送単価が山小屋の存続にとって過剰に高騰した場合には、単価を一定に抑える仕組みを作る。これは離島のフェリー便と同じ構図かと思う。
◎また、緊急時の対応として行政が手配し得るヘリコプターを動員し、事態の収拾にあたる。これは災害時の人道支援体制と同じ構図かと思う。現に国立公園を訪れる登山者の救助も主な目的として配備されている県警察などのヘリコプターには多額の予算がついていることを考えると、有償を前提としてでも、国立公園の運営の安定化に資するヘリコプターがあっても良いのではないだろうか?
登山という趣味、娯楽に公費を投入するべきではない、という意見があるようだが、これはあくまでも「国立公園」の持続可能性が本題なので、やはり公共的な話だと思う。その中に山小屋という不安定な要素があると僕は捉えている。
そもそも論として、日本では国立公園の認知度が極めて低く、自然環境や景観美を社会の豊かさの大きな指標の一つに掲げている欧米のように、国民の意識として日常生活と自然保護、国立公園の問題がリンクしないことがネックになっている。自然の重要性を社会で共有できていないことが、登山文化、国立公園に関わる人の営みや活動を十把一絡げに「趣味や娯楽」という捉え方にさせてしまうのかもしれない。
また、離島のフェリーや人道支援と同じではない、というのは生活との直接的な関係性の違いということで、理解できるし、僕の言葉の選び方が少し軽率だったかもしれない。しかし、僕の意図としては、これは「国立公園」行政の危機管理という文脈であって、その範疇では、今回のヘリコプター問題は最大級の危機にもなりかねないケースのため、緊急時の対応の構図の共通点としてとして引き合いに出したものだ。
目下の問題はヘリコプター会社の経営判断しだいで自由に山小屋の物資輸送を撤退できるし、ほぼ1社しかないヘリコプター会社がスタックした瞬間に物資輸送が完全に途切れる、いつでも「ゼロになってしまう」という極論が隣り合わせだということだ。その今にも切れそうな綱に登山文化をめぐる経済、公共性がぶら下がっている。なんらかのセーフティーネットがあっても良いのではないか、という提案である。
実際、登山文化、国立公園自体がそれなりの規模を誇る経済活動でもあって、その経済活動の中には山小屋に限らず、多くの人々の暮らしがあることも事実だ。まずはその実態を正確に評価することが重要ではないだろうか。
その際、山小屋の位置付けは、確かに難しい。全国的には公営の山小屋、無人の避難小屋、地方自治体が建物を所有して民間に業務委託している山小屋など、様々なスタイルがあるが、もとから建物さえ行政の持ち物であれば、そこに税金を投入することに反発する人は少ないだろう。
しかし、前回の記事でも書いた通り、ことさらに北アルプスでは民間事業の山小屋が国立公園の基幹産業として発展してきた。民間事業ゆえにマスツーリズム化を促すなどの側面はあったものの、山小屋が自己資金で登山道整備や遭難救助、診療所の開設などの公共的な役割を担ってきたために、ほとんど税金を投入しなくても「国立公園」が成り立ち、大きな経済活動として波及効果も生み出してきたのだ。
この状況で多くの山小屋が衰退したら、登山文化に関連した税収は減るだろうし、国立公園の維持に対して、より多額の税金を投入する必要が生じるのはほぼ間違いない。
ヘリコプター問題に行政が税金を使うにせよ、使わないにせよ、登山文化や自然環境にとって、どういう形がもっとも持続可能性が高いのか、国立公園の目指すべきビジョンやバランス感覚が問われているのだ。
もちろん拙速に、山小屋が一方的に儲かる仕組みを作ってしまえば、独占企業化、マスツーリズム化を助長し、世論の反発を生む。反対に何も手を打たず、全体として山小屋が立ち行かなくなれば登山文化は相当に異質なものになり、経済も縮小し、登山道などの維持管理者もいなくなる。この両極の狭間での舵取りなのだ(※1)(※2)。いずれにせよ、行政がよりイニシアティブを持たなければいけないのは明白で、予算は格段に増やす必要があるだろう。
ちなみに、より客観的な経済の視点として、他の先進国の国立公園では、経済効果や利用者数などの情報を積極的に国民に開示し、予算の根拠としているのが通常だが、残念ながら日本では利用者数も、経済効果も、正確な統計自体が存在しない。これはあまりにも基本的な欠陥といっても良いと思う。国立公園として予算を獲得するためのもっとも重要な説得材料を持っていないということになる。
以下は簡単な国別の国立公園の予算規模や経済効果、人的資源などを比較した表だ。素直に捉えれば、北アルプスは世界の国立公園でも最大級の利用者数と経済効果を有しているが、予算規模は最低レベルということになる。
880万人の利用者に対して10人(現場の自然保護官は5人)の職員では、経済効果や現場の状況を調査することもままならない。調査しなければ予算を得る根拠も示せず、人材を増やすこともできない。なんだかメビウスの輪のような話である。
機能的に運営している先進国の国立公園は、利用者が多いほど保護も手厚いものだが、日本ではいくら官民で登山ブームを煽っても国立公園の予算が増えることはほとんどない。この国で自然や文化などの、経済成長に即効性がないとみなされた分野が、公の予算や制度的にどれだけ雑に扱われているか、そういう根本的な問題にも目を向けてほしいと思う。現在の国立公園は、そういった方針の末路とも言える状況なのだ。
今後人口減少に伴って国内需要が縮小していくといわれる日本の国立公園だが、国際観光の文脈では自然環境を志向する旅行者の数は急増しているという。これまでは、高度成長期の「放っておいても国内需要だけで潤う」という受け身な意識に捕らわれ、世界的に見ても希少な生態系の宝庫である日本の自然環境の魅力を積極的に海外に発信することはなかったわけだが(学問的な研究活動自体が少なく、国内向けにも発表することは稀だった)、経済を積極的に語るなら、この点でも考え方を変える時期はきていると思う。(※3)
僕も国立公園の受益者負担についての議論は、もっとも優先するべき課題の一つだと思う。そして僕としては、受益者負担という考え方には、二つの視点があると思っている。これは何を持って利益とみなすかと言うことに2種類の捉え方があると言うことだ。
一つ目は、国立公園の自然環境や景観、希少な生態系などが、人々にとって普遍的な財産であって、後世に受け継いでいくために社会が責任を持って保護していく、という考え方。この場合の利益は、その存在そのもの、自然環境に接するチャンスを全ての人が持てること、国立公園を取り巻く経済活動によってもたらされる経済効果などだ。受益者は全国民で、負担は税金として当分に負うべきものと言うことになる。
しかし、日本ではこの考え方は非常に弱い。現状34の国立公園があるのに対して国家予算は80億円程度(この数字も資料が少なく不明瞭だが)しかなく、国民一人当たりに換算するとわずか50円前後しか負担していない。先進国の国立公園ではおそらくダントツで最低レベルだろう。負担したくない人からするとこの点は現状維持で何ら問題はない。しかし国立公園を維持するためには絶対的に不足している。
もう一方は、国立公園を直接利用した人が、受益者として入域料を払うという考え方。僕としては、予算がつかない以上、入域料は必要だと考える。他国の国立公園を見渡せば、一般会計からも予算をつけ、さらに利用者から入域料を徴収するという2本立てで、公平性を担保しているところが多い。利用者が直接自然に負荷をかけるのだから、ある意味で当然の考え方かもしれない。
しかし今現在、日本の国立公園で入域料を徴収しているのは世界遺産になった富士山をはじめとした、わずか数例にとどまる(しかも環境省が直接徴収しているわけではなく、支払いは必ずしも義務ではない)。これは、世界的にも相当に不可解な状態と言える。
「国民のレクリエーションの場として広く開放するため」というのが建前だともいわれるが、すでに外国人も相当数利用しているわけだし、環境省は絶望的な財源不足にあえいでいるのである。一般的なキャンプ場利用料が千円の時代に、2、3千円の負担を求めるのは難しい話ではないだろう。それでも遅々としてこの部分の議論が進まない背景にも、構造的な問題が立ちはだかっている。
やはり最大のネックになるのは、環境省の組織力の弱さである。
入域料を徴収する場合、前提として法制度を整え、全登山口にゲートや人員を配置しなければならないし、域内の山小屋や、登山口へのアクセスなどを担っている民間の交通機関などと様々な調整をする必要もある(※4)。しかし環境省には、ゼロからシステムを構築するだけの組織力が明らかに不足しているのだ。(その上、環境省が入域料を徴収しても、税制度的(一般会計)に、その収益は国立公園の整備に限定して使用したり、積み立てたりすることができない。)
結局、苦肉の策として、数年前に「地域自然資産法」という法律を作り、地域レベルの協議会(都道府県や市町村、山岳団体、学者、企業、公益社団法人などの混成組織)が入域料を徴収し、「地域の自然環境」の管理に回せるようにしつつあるようだが、それも義務でもなく、包括的な仕組みでもない。またしても地域の任意組織に依存した状態なので、特に北アルプスのように多くの県や市町村が含まれる地域の場合、国立公園という単位を無視して富山県では入域料を徴収し、長野県では徴収しない、あるいは登山口ごとに仕組みが異なるなど、混乱を助長する結果になりかねない制度だと言える(※5)。これを環境省が「国立公園」運営の新機軸として旗振り役になること自体が、多くの矛盾をはらんでいると思う。
そして、たとえ間接的にでも入域料で財源を得たとして、今の環境省の組織力では、協議会の運営能力を管理することも、自ら財源を使いこなすことも困難だろう(平成初期に、国立公園に対して今の倍程度の予算がついたときにも使いきれなかったといわれている。また、国立公園内で行われる登山道整備などの公共事業でも、実態は地方自治体任せで、自然の知識のない土建業者が競争入札で落札して粗悪な工事をすることも多い。評価や経過観察もほとんどされず事業の「質」を管理できる体制が無い)。
北アルプス全域に自然保護官が5人しかいないことは先に書いたが、さらに彼らは2、3年で異動を繰り返し、自然環境の現場なり、構造的な問題を把握する時間さえもないというのが現状だ。昨今は、山小屋が事実上管理してきた登山道が、異常気象による加速度的な荒廃、山小屋の経営基盤の不安定化などによって管理しきれなくなっているところが続出しているが、その実態を把握することもままならず、現状に即した管理計画を立てることもできていない。
国立公園自体、行政が責任を取るような発想で作られなかったということが根底にある。
国立公園に関連する行政機関だけでも、地主は林野庁(僅かだが環境省直轄地もある)で、社会資本整備は国土交通省、公共事業の受け皿は地方自治体、その他電力会社や民間の地主などが、それぞれに異なる法律や目的を持って混在しており、意見を集約する仕組みもない。多くの事で利害がかみ合わないため、「国立公園」のイニシアティブで物事を決定すること自体が難しいのだ。
市町村や県ごとでも考え方が違い、互いに調整することもできず、縦割り行政の弊害が顕著に表れてしまっている。ここでも全行政機関の担当官がほぼ全員2、3年で異動し、別人になり続け、継続的な情報共有自体できず「記憶も、記録も思い当たらない」状態が慢性化している。極めて深刻な状態だ。
上述のように複雑な縦割り構造の中で、環境省ができないし、やったこともないことを「任意組織」が全てをマネージメントできるのか、想像すればわかることだ。
これは環境省を批判すればよいと言う類のことではなく、国策や世論が環境問題、自然保護などを軽視してきたしわ寄せが、この窮状を生み出していると見るべきだろう。
旧知の自然保護官曰く「やはり最大の問題は人材不足に他ならないと思う。富山県全体で自然保護官が一人しかいないと言う状態で、しかも2年ごとに移動がある。許認可業務や緊急性の高い事案などをこなすだけで精一杯であって、現状の課題に対して建設的なアクションを起こす余裕はない。自分が自然を楽しむ余裕もない中で、良いアイディアが生まれるかといえば、難しいことだと思う。」
少なくとも環境省に、予算は3倍、人材を10倍程度はつける必要があると僕は考えている。
今回、世論の意見を見るにつけて「山小屋はマスツーリズム、環境破壊の温床」とみなす人が一定数いることはある意味で新鮮だった。事実そういう側面もあるからだ。ただし、これは山小屋も含めた、社会全体の性質なのではないだろうか。
日本の国立公園のあり方や山小屋の業態が概して消費的で、創造性、持続可能性に欠けることは事実で、今後変革が不可欠だというのは、僕自身も強く感じている。日本ではレジャーとしての登山が盛んなのに対して、自然環境に関する学問や、芸術、ジャーナリズム的な活動は非常に下火で、自然の豊かさを創造的に日常生活のあり方に結びつけようとする視点が欠乏している。国立公園のあり方にしても、ヨーロッパやアメリカに習ったはずが、かなり異質なものになってしまっている。
これは社会のあり方の問題だ。ヨーロッパでは産業革命で脅かされた自然環境、歴史的文化、景観などを、市民の側から守ろうとする運動が起きた。何か特別な景勝地を守ろうとするのではなく、自分たちの日常生活や文化の基本的な理念として「自然は必要か?」という問いに、明確にイエス、という答えを出したのだ。
暮らしと調和した自然景観の保護から語られ始め、その議論が発展する中で、「自然そのものも守ろう」という発想が芽生え、具体化したのが「国立公園」なのだ。「世界には自然が必要」という、自分たちの価値観をさらに深め、確認する学びの場といってもよいだろう。
その理念が社会に浸透しているので(もちろん長年にわたる、様々な理論や対立の末に醸成された)、国立公園の予算や人材は手厚く、企業による寄付やボランティア活動の裾野も広く、学術研究も活発であり、それらの活動をメディアや教育現場を通じて広く発表することで、国民の関心を引きつける努力も日常的に行われている。
一方日本では、たしかに欧米のそういった流れに触発された部分があるとはいえ、市民運動や社会思想としての自然保護、景観保護の世論は発展せず、国立公園設立の経緯も自然そのものを守ろうというよりは、観光政策としての旗色が圧倒してしまった。
現在の環境省の予算規模の小ささ、制度の脆弱さ、国立公園に指定した後の、エリア内外での自然破壊を伴う大規模開発などが、その性質を端的に物語っている。学術研究も昨今は下火で、客観的な状況分析もままならず、国立公園の荒廃などがメディアに取り上げられることも稀だ。その一方で、観光情報的な登山番組に事欠くことはない。利用と保護のバランスが、著しく利用に偏っている状況といえる。
再び他国に目をやれば、アメリカやイギリス、ニュージーランドなどの国立公園ではそれぞれの社会背景に即して、利用と保護のバランスを厳しく管理している。入域規制や入域料を設け、財源を確保しつつオーバーユースにならないようにコントロールし、同時に経済効果も最大化されるように国立公園の周辺地域の質の高い保養地化、グリーンツーリズムなどを並行して進め、全体的に自然と調和した観光地として機能するようにデザインされている。経済や暮らし、自然保護などが共存できるあり方だ。
残念ながら、日本では全体として国立公園の世界観や理念を「デザインする」ということができていないため、経済効果さえも最大化できていないと思われる。入域管理も、入域料もなく、国立公園から少しでも離れると雑然とした無機質な街並みに早変わりしたり、山が削られていたりと、社会をあげて国立公園という財産を生かす機運がない。
登山のスタイルも世代を超えた価値観、文化として普遍的な形になりきれていないため、忘れられそうになるたびに違う形のブームとして再構築する、という不安定な状況だ。第一次登山ブームは山岳会、縦走登山、体育会系的なもので、第二次は中高年の百名山ブーム、昨今の第三次はキャンプ、単独行、ファッションなどの個人性の高いものだったりと、価値観の不安定さが際立っているように思う。
これは日常生活と自然が繋がっていないことの弱さだと僕は理解している。利用に偏り、かつ経済効果も安定しないというのは、悲しいことだ。
要するに自然保護に関する限り、山小屋の要否のレベルではなく、社会全体の価値観の問題なのだ。自然保護を少しでも意識するのであれば、国民が世論を作り直して行く他に方法はない。
確かに山小屋も観光的な文脈で発展してきたとはいえ、必ずしも自然破壊的な存在と断定はできない。本来のアイデンティティーをたどれば、猟師たちの暮らしの場であったり、宗教者の巡礼の宿であったり、ナチュラリストの夢の実現だったわけで、山小屋の存在が、利用圧に対して自然を守ってきた側面も大きい。
その一方で、確かに民間事業として、市場原理に身を委ね、マスツーリズム化を推し進めた側面もあるだろう。しかし、山小屋も十人十色であって、白か黒かで語ることではない(※6)。
自然保護のために今の登山文化をゼロに戻すべきだとか、人間が立ち去ることが最善策だということはありえない。現実問題として、人がすでに入り始めてしまっている以上、山小屋がなくなればたちまち山は荒廃するだろう(大雪山系などにはほとんど営業小屋はないが、登山道の荒廃は深刻で、山小屋とは違う立場の民間人が、ほとんど手弁当で登山道を整備しているというだけの違いである)。
確かなことは、自然環境の現状を知るのは、山小屋や、その他現場で働く少数の民間人たちに他ならず、行政には現場を熟知する人材は皆無に近い、ということだ。
これからやるべきことは国立公園という一つの価値観に対して、現状は縦割りの構図で分断されてしまっている様々な立場、行政や山小屋、利用者、メディアなどをどれだけ横断的に協力関係としてつなげることができるかということに他ならないと思う。国立公園を健全化することは社会の持続可能性、文化、経済、どの側面を取っても重要な問題だ。
登山をしない人たちからすると一部の人々の観光地でしかないというイメージなのかもしれない。しかし「自然環境は社会にとってあらゆるレベルで必要だ」と僕は考える。自然保護のルーツを見ればわかるように、それは産業の開発圧に対して生活や文化を守るという人道主義に端を発している。自然を守ることは、すなわち人を守ることでもあるのだ(※7)。
冷静に見てみれば、現代の日本の社会は、自然や文化を軽視した末に、自ら生活を破壊してきてしまったのではないか。金銭的な豊かさは最終的には個人の利害にしか帰着しないが、自然や歴史的な文化といった存在は、世代や個人性を超えて人々をつなぎ止めてくれるものだ。
こうした共有し得る普遍的な価値観を失った社会では、人間のつながりは薄れ、精神的な拠り所も見出しづらくなり、結局経済活動のモチベーションや社会への参加意識も保てなくなる。田んぼの風景や過去の家並み、畳やちゃぶ台、縁側の景色を全く知らない子どもが、老人の話に共感できるかどうか、単純な話だと思う。
また、田舎の自然景観や生活観などへの配慮をせずに、無機質な工業化などを進めれば、短期的な利益と引き換えに地域社会の誇りや愛着、経済的な自立などが保てなくなり、結局は田舎の過疎化、都市部への人口集中、都市の住環境の悪化なども全て同時に引き起こすことになる。
生活環境が崩れれば、高齢者や子どもなどの弱い立場の人々が真っ先に割りを食うこととなり、いよいよ少子高齢化などは負のスパイラルを描くことになる。
20世紀以降の日本は、過度に短期的な利益を追求するあまり、大切なものを失ってしまったような気がしてならない。こうした意味で、国立公園を取り巻く状況は、社会の歪みの現れでもあると感じる。
ヘリ問題に端を発したこの議論ではあるが、ここから「国立公園」が、自然を捉える視点を育みに来る場所として、本当の意味で全ての人にとって大切な存在になっていけば良いと思う。
自然に学び、人間社会の側が自然に歩み寄る機会を与えること、自然の持つ無限のインスピレーションや創造性を社会にもたらしてくれるのが国立公園の大きな役割なのだ。そしてとりあえず、議論の出発点として、訪れてみてほしい。知らないものを愛したり、守ろうとしたり、知らないものから学びを得ることは出来ないのだから。
(国立公園の仕組みや現状などについては当HP内コラム「山と僕たちを巡る話」に詳しい)