1. はじめに

 この度は雲ノ平山荘で働くことに興味を持っていただきありがとうございます。山小屋の仕事に興味を持っている皆さんはおそらく山登りや自然が好きであったり、日常の生活から一歩踏み出してみたいと感じている方なのでしょう。そしてそこでは通常の山登りでは経験できない自然体験や新しい視点の発見、あるいは山を取り巻く仲間たちとの出会いなどを期待されているのだと思います。それは確かに多くの方が山小屋での生活を通じて実現していることです。

2. 昨今感じること

 しかし昨今、私たちは皆さんが山小屋の生活に飛び込む前に山小屋という仕事や生活について、今一歩理解を深めてほしいと感じ始めています。なぜならば、「山が好き」の一心で山小屋の仕事に飛び込んでしまうのは様々な意味でリスクが伴うからです。

 登山に限らずアウトドアスポーツやキャンプに向かう時、多くの人はある種の精神的な安らぎや解放感を求めているか、自然という社会的な制約を強く感じない環境で仲間と自由なひと時を過ごすことに魅力を感じているのではないかと思います。そして時としてその思いの延長線上で山小屋の生活を思い描き、あこがれを抱く方がいることは何ら不思議なことではありません。

しかし実際は登山者として自然を楽しむ、個人的に満喫する、という行為と、山小屋で仕事をする、生活をしつつ登山者を迎えるという両者の間には言葉では表しきれないほどの大きな違いがあるのです。そしてそのイメージと現実とのギャップを予期せずに来てしまったスタッフの中には山小屋に一方的な幻滅を感じたり、生活に適応できずにストレスを溜め込んで途中でギブアップしてしまう人も少なからずいるのです。周囲に町もなく電波も乏しい環境の中で、ひとたび自分自身が直面する現実を受け入れることが困難な精神状態に陥ることは、想像以上に大変なことです。それは本人にとっても苦しいことである一方で、一つ屋根の下で暮らす周囲の人間にとっても大きな負担になりかねないことなのです。

 端的に言うと、山小屋の業務は激務だという事です。

3. 山小屋の業務について

 以下に山小屋の業務内容について少し踏み込んでまとめてみることにしましょう。

〇多岐にわたり複雑

 山小屋の業務は宿泊業全般(飲食提供、清掃、接客、物販、会計、物資の手配etc)をはじめとして登山道整備などの土方仕事、建物の修繕や改修などの大工仕事、遭難救助、学術機関との共同作業による緑化作業etcと非常に多岐にわたっており複雑。

〇プライバシー確保の難しさ

 基本的に忙しい現場である上に、山小屋という性質上、仕事と生活の公私の区別がつけ辛く、プライバシーも十分に確保できない。いわば職場から精神的に割り切って距離を置く手段がない。お互いに密接な交流を持ちつつ、適切に敬意を保たなければなりません。これは人と人の(比較的割り切った)距離感を重視する現代人の感覚からすると、時に耐えがたい要素になってしまうようです。

〇給与や休暇等について

 都会の一般的な仕事に比べて、労働時間に対する給料も高いとは言えない。また山登りを楽しむ時間は思いの外限られます。

〇山小屋の公共性・社会的責任に対する理解が必須

 山小屋は多くの一般的な業務に比べても公共的、社会的な責務を多分に含んだ仕事です。あまり語られることが多くない問題ではありますが、日本の社会は長きにわたって自然環境を重視してこなかったという事実があります。その一環として国立公園というものも非常に手薄な運営体制が今に続いており、実態として山小屋が公共的な活動の多くを担っている状況です。遭難救助、登山道の維持管理、自然保護の各種実践、行政機関(環境省、林野庁、県警察、県市町村)との連携や各種交渉、登山者への啓蒙活動など、私たちの職場ではそれらのことを理解する必要に迫られます。
 また、近年はアーティスト・イン・レジデンス・プログラムや登山道整備ボランティア・プログラムなど、雲ノ平山荘として芸術表現や社会運動に踏み込んだ事業も展開しているため、異分野に対する自発的な参加意欲も求められます。

〇予期せぬ事柄への臨機応変な対応が求められる

 気象の急変や遭難、予期できない混雑や身内の体調不良などに常に臨機応変に対応しなければならず、日々決まったルーティーンをこなせばよいという性質の職場ではありません。受け身で与えられた仕事をこなすというスタンスではなく、状況を各自で判断したり、積極的にコミュニケーションをとる姿勢を維持する必要があります。その為には体力はもちろんのことですが、逆境をも楽しむような精神的な粘り強さがカギになります。

〇コミュニケーション重視

 山小屋では話し合いを重視します。私たちが要求するだけではなく、山小屋が職場として、登山者の憩いの場所として、スタッフの生活の場としていかに良い環境であれるかという事について、スタッフからも日常的にアイディアを求めており、その意味ではスタッフ全員で作り上げていく職場です。また比較的短期間で広範囲な業務をこなせるようになる必要もあるため、話し合うという事に対して前向きであることはとても重要な要素です。もちろん口数の多い少ないは問題にはなりません。また、舞台裏での愚痴の応酬は山小屋という密室的な環境の中では非常に暗い結果をもたらします。オープンに物事を表現できる事、おおらかに状況を受け止められる事、精神的な自己管理ができるという事が並んで重要なことです。

 皆さんはどう感じたでしょうか?以上のことから理解していただきたいことは、山小屋の仕事は自然環境と密接であると同時に、高度に社会的な仕事なのだという事です。山小屋で働く以上、そこで直面する現実が皆さんに、自然環境に対する興味と同等に山小屋という特殊な社会そのものに対する好奇心や精神的な共感を問いかけることになるのです。

4. おわりに

 そしてこれらのことを踏まえたうえで山小屋で働いてみたいと思う方に対して、山小屋はとてもお勧めできる職場です。

 山小屋という未知の環境を楽しむ心意気がある限り、日々は様々な試練とともに出会いをもたらします。一過的な登山では決して目にできない景色、季節の移ろいの豊かさ、様々なバックグラウンドをもって山を訪れる人々との交流…その日々の中であなたは自然や世界、人生に対する新しい感覚を発見するでしょうし、生活の様々な能力を身に着けたり、かけがえのない仲間と出会うことでしょう。これは何も大げさなキャッチコピーではなく、今まで共に働いたスタッフ達の経験したことを振り返れば自ずとわかることなのです。

 最後に、私たちは雲ノ平山荘にいて「人間の社会と自然環境はどのように関わり合うべきなのか」という普遍的な問いかけの中で山小屋の生活や登山を捉え、文化として末永く将来に続く形を見出そうとしています。そのようなテーマ性を重荷に感じる人もいるかもしれません。しかし私たちはその大きな課題に最善を尽くして向き合うことの先に、真に美しいものを見出したり、良き仲間に巡り合えることを楽しみにしているのです。

 このような職場ですが、興味を持っていただいた方は何なりとお気軽にお問い合わせください。心からお待ちしています。


雲ノ平山荘 伊藤二朗