コロナ禍の景色

雲ノ平山荘

コロナ禍の景色②
登山自粛論

PEAKS連載記事 山と僕たちをめぐる話 
第21話「コロナの物思い⑵ 希望を紡ぐ」大幅補稿版

近所の小高い丘の上に、海が見晴らせる公園がある。よく晴れた日の夕暮れ時、久しぶりに妻と二人で訪れると、公園につながる車道は通行止めで、人影はない。それならば…と、おもむろに芝生の上で大の字に寝転んで空を見上げれば、雲ひとつなく、しみじみと蒼い。その空の一角には半月がぽかりと浮かんでいて、眺めていると、月がふわふわと揺れ動くような気がしてくる。ふと、子供の頃、同じように星をじっと見ている内に、いつしか動いたり、分裂したりする錯覚に見舞われて、UFOを発見したような気になったことを思い出す。「動いているようだねぇ…」「鳥人間のようでもあるし…遠くをヒラヒラ舞うビニール袋にも見える…」「お湯に浸かるハンプティダンプティかもしれない…」などと二人でぼやいていると、羽を伸ばしたトンビのシルエットがすうっと、視界を斜めに横切り、今しも水平線に沈む夕日の方向に、海風に乗って、颯爽と遠ざかって行く。
 地上はコロナ禍、人類が喘いでいる遥か上空で、鳥は今日も獲物を求めて飛翔し、沈丁花は甘い香りを漂わせ、星は眠るように巡る。「世界は自由なのだ…」何やらほっとしたところで、夕飯を食べに家路に着いた。

 さて…まだまだコロナ禍だ。登山業界も自粛である。
 今はそういう時で(5月上旬現在)、僕も現状の登山自粛には一定の賛意をしめすところから書き始めたい。しかし、それはある程度明確な基準に基づいた時限的な措置であるべきだし、同時に社会の存続のために様々なオプションも考えなければならないと思う。
 そもそも、緊急事態宣言の趣旨は、感染拡大のスピードを鈍らせ、ピークを先送りにすることで医療崩壊を防ぐこと。これには協力しなければならない。いわば時間稼ぎをしている間に、未知なるウィルスについての知見を高め、今後コロナウィルスと共存できる医療体制や社会体制を整えるという目的のためだ。

 ほとんどの感染症専門家が、ワクチンや特効薬の開発には最短1年から2年かかるか、あるいは最悪できないかもしれない、ワクチン以外の明確な出口は国民の6割以上が感染し、集団免疫を獲得するしかない、今後外出制限を解除すれば、再び感染は拡大し、状況に応じて規制を設け…の繰り返しになるだろう、という見解を示している。撲滅はほぼ不可能だと。
 つまり、長期戦になるからこそ「コロナ罹患死のリスク」と、失業率が1%上がるごとに自殺者が二千人ほど増えるとも言われる「経済死」のリスクのトレードオフの関係を考えなくてはいけない。何をもって人の生命を守ると言うか、である。

 事実上、僕たちにはウィルスと共存する覚悟が必要なのだ。一部で言われている、医療崩壊を回避しつつ、むしろ高齢者などの健康不安がある層に自粛を求め、健常者は上手にコロナに感染して行くことが最善策だという主張は決して否定できないと思う。
 また、情報のグローバル化の落とし穴で、世界中がコロナで危機に瀕しているとなれば、もっとも危機的な地域の情報が常に人々の意識にも作用し、恐ればかりが先行してしまいがちだ。しかし実態は、国や地域や生活習慣、人種、気候、BCG接種などによって、病気のリスク評価の前提が大きく異なる可能性があるわけで、日本では致死率だけで言えば、インフルエンザと大差がないとも言われている(アジア圏では欧米圏に比べて人口比の致死率が50〜100倍低い。専門家でも現時点で合理的な説明はつかないようだ)。油断は禁物だが、何が正解かわからない以上、「コロナ=死」という先入観は捨てて、柔軟にトライアンドエラーを繰り返しながら、状況に応じた最適解を導き出すしかない。

 そして、判断の精度を上げるためには疫学的なリスクと社会学的なリスクを精査しなければならないわけだが、現状日本では、情報分析、共有、施策実行の動きが著しく不明瞭かつ遅いことが混乱を助長してしまっている。検査の少なさで対策の根拠となるべき統計が機能せず、経済支援の脆弱さ、IT化の遅れ、自粛(雰囲気)依存などで外出規制も締まらない。
 専門家自らが、すでに数十万人もの無症状感染者がいることを示唆している状況では、感染の封じ込めは事実上放棄している段階にも見えるが、果たして僕たちは何を目指しているのか…ベタな意見だが、経済も感染症対策も共倒れにならないように、改めて僕たち一人一人が、頼りない政治機構へのプレッシャーを強めなければいけないと感じる。

登山自粛と地方経済の危機

 現在登山業界では、都市から地方への感染拡大リスクを説明するために、脆弱な地方の医療体制や高齢化の問題、救助隊員のコロナ罹患リスクなどを例示して自粛を呼び掛けている。

 繰り返しになるが「今は」そうするべきだが、それは時間稼ぎに過ぎない。次、どうするのか。
 登山の可否以前の問題として、僕は不用意な地方保護論は、裏を返すと地方が都市から経済的に独立していない限りは、地方の自滅を招くのではないかと心配している。緊急事態宣言が解除されたとしても、高い確率でウィルスと大勢の無症状感染者はこの世に存在し続けるわけであって、過度なコロナ恐怖症と都会人忌避の観念は大きな矛盾となって顕在化するだろう。

 明確な基準が必要というのはこのことだ。時間稼ぎをしている今こそ、不安感を煽るのではなく建設的に、地方における医療体制の準備・分析も含め、ウィルスとの共存モデルを議論するべきではないのだろうか。

 田舎に感染者を入れない、地域医療を守る、という平面的な議論だけでは、結果的に地方経済が破綻し、しまいには大勢の失業者が仕事を求め都市部に出稼ぎに行くような、本末転倒な事態になるだろう。ウィルスから医療機関を守ろう、という世論の陰で、多くの病院やクリニックでは外来患者の減少や稼働率低下によって、別の経営危機に瀕しているというのも事実のようだ(感染症用に確保した病床数が、全国の病床数に対して1%程度。医療システムのガバナンスにも問題があり、あるべき役割分担ができていないとも指摘されている)。要するに「感染拡大=医療崩壊」「自粛=正義」「ウィルス遮断=地方を守る」という単純な話ではなく、地方を守るために医療体制を拡充・再構築し、役割分担を明確にした上で、社会全体でコロナと共存しよう、という話でないと社会は存続できないはずだ。そもそもコロナウィルスはどれほど致命的な病気なのか、という根本的な評価も刻一刻と変わってきているのである。

 今は、早急に地域ごとの実態評価を進め、感染者を受け入れ可能か不可能か、どのリスクを回避し、許容するか、何を妥協点とするのか、具体案を考えなくてはならない。様々な因子を読み解き、それでもコロナとの共存は不可能だと判断した地方については、現行法がどうであろうが合理的な移動規制を敷いて、感染ありきの都市部と物理的に切り離した上で、経済支援を拡充するしかないのだろう。

グローバル化の落とし穴

 また、コロナ禍は、世界中が同時進行的に、同一の感染症を経験しているという点でも、 情報化以降の歴史上はじめてのことだ。そして、その情報のグローバル化も、僕たちの意識を揺さぶってくる。
 国内で自立したメディアリテラシーや行動指針ができないと、世界中で最もインパクトのある話題に引きずられ、危機感を無闇に上書きされる羽目になる。当初はコロナで亡くなるのは、高齢者だけと思われていたところに、他国で若者も亡くなった、というレアケースが出れば「若者もあぶない」と騒ぎになるが、本来それはどんな病気でも起こり得ることであって、一喜一憂すべきことではないが、コロナというだけで震え上がってしまう。

 例えば、登山自粛の一つのキーワードになった「万が一遭難したら救助隊に負担をかける」という話もその典型である。
 日本の登山界で、コロナに関する引用可能な事件が起こらなかったこともあり、とある医療関係者の登山自粛の呼びかけに使われたのは、以下のような海外の事例だった。

  • ・イタリアの山岳救助パイロットのコロナ罹患および重症化、のちに生還。
  • ・カナダの山岳救助隊が予期せず感染者に接触し、活動自粛。国立公園閉鎖の一要因になった。

 だから、登山を自粛しようという理論である。
 これははたして、どれほど参考になる情報なのだろうか。

 くどいようだが、今回のコロナウィルスに対するリスク評価自体が国によって(かつ時期によって)異なっており、現に致死率や感染拡大スピードも、国や人種、気候、生活習慣によって大きく異なる。感染者を受け入れる側の医療体制や、経済リスクの評価などとの相関関係においても、社会的な行動指針は全く変わるのだ。
 欧米の多くの国では、爆発的に感染が拡大し、致死率も極めて高い状況であったため、経済や文化活動などのあらゆる活動を停止せざるを得なかったが、日本をはじめとしたアジア圏では各種統計データからも、格段に穏やかな状況を推移しているため、危機意識は違って当然だろう。イタリアやカナダでそうだから日本も、ということであれば、そもそも登山以前に、世界で最も危機的なケースに合わせて都市部をロックダウンし、外出を禁止し、飲食店も営業禁止、国民にはより経済支援を…となっていなければならない。国立公園の閉鎖も、カナダではそういう措置をした、というだけのことである。
 なぜ登山だけが外国の指針に従わなければならないのだろうか。もちろんコロナウィルスの危険性に関する知見が不足していた初動対応としては、全ての国で最大限の警戒をする必要があったことは理解できる。しかし、欧米ですらも、このままでは経済の死で社会が壊滅することを見越して、コロナとの共存の方向を打ち出し始めている現段階において、予防対策が万全でなかった外国の山岳救助隊の初期の事例を「今後の」判断基準にする必然性はないだろう。

「いじめられたくない」という心理

 ましてや、救助隊を守る、医療機関を守る、「自粛=無条件な正義」というロジックは、先に述べたように不用意に拡大解釈されると、過剰な都会人忌避の観念として残るため、地方社会の経済危機という弊害の方が上回ってしまう。せめて、そこは地方社会ごとの判断に委ねるべきだし、救助隊や医療機関からの意思表示であるべきだろう。救助隊が「対応できる」と言うのであれば、余計なお世話でしかない(以前から、登山者救助などに税金を使うなという主張があって、今回はそれに便乗した人もいるようだが、全く別の問題である。僕も一律で無料ではない方が良いとは思っているが、そもそも救助活動自体を否定すると、社会が萎縮して税収も減るなど、損失の方が大きくなる)。

 また、全員が無症状感染者の疑いがあるから外出自体が危険だというロジックも、初期対応としては妥当な留意点だったかもしれないが、感染者が潜在的に大勢いることを前提にして、ウィルスと共存する段階になっている今となっては、思考停止の一種かもしれない。感染者がわずかな地方でも、無症状感染者を恐れて救急車がたらいまわしにされるという話を聞くが、病床がいっぱいなのか、ただ地域の方針が決まっていないのか…病気のリスクとは別の問題のような気がしてしまう。
 「皆感染している」想定をするのならば、医療機関の受け入れ態勢の拡充、役割分担にこそ視線を向けないと、医療機関もろとも社会が窒息してしまうのではないだろうか。実態もわからずに、無闇に医療機関を褒め称えても、感染者を恐れていても仕方がないのである。

 正しく恐れる必要がある、とはよく言われるが、夏季の富士山や茅ヶ崎海岸の封鎖、南アルプスの多くの山小屋の閉鎖、甲子園の中止など…まだ実証もされていないリスクを回避することに、正しい学びはあるだろうか。
 「自粛」を肯定的に捉えた結果ではなく、いつの間に感染者や医療従事者が差別されるような村社会的な風潮の中で、反射神経的に「いじめられたくない」という個人的なリスク回避の心理が社会をがんじがらめにしているような気がしてならない。

「自粛」について

 はたして、自粛とはなんなのか。
 僕は「自粛」という概念への依存はかなり危険だと感じている。これは、判断基準・強制力・責任の所在が曖昧な仮設の「ルール」ともいうべきもので、個人の解釈、相互監視が前提となるわけだが、こと命に関わる話で安易に自己判断に依存すると、混乱が起こる。

 ただでさえコロナ禍の不安定な精神状態の中で、生活のための仕事か、感染予防の徹底か、引きこもるか、適度な運動とはなにか、恋人同士は家族か、情報源は何か、などの個人の判断に誤差が生まれるのは自然なことだ。
 必然的に人々の間で複数の「正義」が対立しはじめ、その正義を裏付ける基準も曖昧となれば、結局猛威を振るうのは不条理な私刑である。
 そして自己申告の「正義」は、明文化された規則とは違い、解除するのも難しい。

 自粛がもたらす混乱は、どのように起こるかといえば、大雑把だが、以下のような経過になると思う。
 まず、基準が曖昧なので、感度の鈍い人に合わせるとなれば、必要以上に危機感を煽りつづけなければ効力が維持できない、という問題から始まる。だが煽っているうちに今度は過敏な人がヒステリーに陥り(あるいはいじめ常習者が都合の良いターゲットを見つけ)「自粛=正義」の名の下にデマや中傷、SNSによるネットリンチなどが蔓延し始める。自粛警察などはこの現象だ。
 大衆心理はそれらの「私刑」を恐れるあまり、ヒステリー(暴力)を基準に同調圧力を形成する…という具合に「恐れ」の連鎖で、全体が萎縮していく…。

「登山自粛」スパイラル

 今の登山自粛論も、おおよそこの流れだ。
 前提として、事実上「登山」は地域を跨がない限りは、「屋外でのスポーツ」として緊急事態宣言の自粛対象から外れていた。しかし、現実問題として危機感のない人々が地域を超えてGWに山に大挙するということが心配されたため「今はやめておこう」という呼びかけが始まった。シンプルに「今は緊急事態宣言がでている。社会が態勢を整える期間だから」という解釈でよかったはずが、わかりやすく危機感を補強するために、「脆弱な田舎の医療体制を守る、地方は高齢者が多い、救助隊が無症状感染者に接したら問題」などの理論が加えられた(多分この辺りまでは止むを得ない穏当な判断だったと思う。この発信により、確かにGWの混乱は避けられた)。

 これをメディアが「登山はやめておこう」という基調の中で取り上げ、やがて全国でも1、2例のレアケースの山岳遭難事故などを報じ始める。ひとたび悪目立ちすると後戻りは効かない。
 登山は不要不急だとか、登山者の存在はもしかすると田舎の医療機関や救助隊、ひいては人々の脅威なのではないか、という一般世論の雰囲気・拡大解釈が起こり、いつのまに登山者(都会人)から田舎を守れ、という発想にさえ繋がる。それがあたかも正義のような錯覚を起こし、世論は十把一絡げに「みんなで登山をやめよう」という方向に傾斜していく…。

 当初の目的は、地域を超えて人が行き交うのは「当面やめた方が良い」という部分であって、登山という行為そのものではなかったはずだ。それがある瞬間に捻じ曲がったのである。

 冷静に立ち止まって考えるとして、登山によってクラスターが発生したという事例はない。しかし登山者は、手当たり次第バッシングされるから自粛、となれば、僕たちは何のリスクと戦っているのだろう。
 これで登山をしないという判断は、個人が私刑に晒されないためには無難かもしれないが、社会的には無難な選択どころではない。地域経済がコロナと心中するようなもので、相当にいびつな思考である。
 (山小屋はともかくとして)登山にしろサーフィンにしろ、アウトドアスポーツ自体の感染リスクは極めて低く、救助隊の要素を除けば、固有の感染リスクはほとんど存在しない。
 これを、緊急事態宣言解除後も継続して、地域医療に負担になるからダメだと言った時点で、あらゆる旅行が難しくなると考えるべきだろう。救助隊については先述の通りだ。

 ともあれ、全体がある種の「いじめ」に怯え、生殺しの状況をまねく「自粛」より、時限的な越境移動禁止(許可制)、罰金などの強制力のある形の方が、よほど効果的だし、人道的なのではなかったか、とも感じる。移動規制に違反したら5万円の罰金、と言い切れれば、過剰な世論の扇動や分断、萎縮、無限責任論も起こらないのだから。もちろん、「村八分」的な不文律が根強い日本では、規則があればいじめがなくなるという訳ではないとも思うが。

括弧つきの自由

 日本社会では、そもそも法律、マナー、常識、道徳などの区別が曖昧で、漠然と「常識・ルール」には黙って従うべき、という捉え方が定着しているような気がする。みんな一緒であれば大きな危険はない、ひるがえって「みんな」と違う人は間違っているのではないかと…
 しかし「自粛」違反に対するバッシングは、今や「常識」として横行しているが、いっていれば法律的にはダークグレーゾーンであって、違法の疑いがあるのは往々にしてバッシングをする側である。
 常識というのは危ないものだ。

 そもそも法治国家は「自己責任」という性善説では人間社会を統治できないからこそ(人はミスを犯すという前提に立ち)、明確な法で治めるという理念に基づいて、いちいち「自動車道のスピード制限は何キロ」「理不尽なことがあっても暴力はNG」というような決まりごとが存在する。
 例えば、スピード制限が強制力も罰則もなく「安全な範囲で自制してください」というだけの要請で社会が成り立つだろうか。ある人は時速60km、別の人は時速120kmが安全速度だと解釈し、意見の相違で罵り合ったところで答えなど出るはずはない。失敗した時には120kmで走っていた者が当然責められるだろうが、遅く走る方が社会的なリスクは避けられる(いじめられずに済む)、という理屈がまかり通れば、無駄に皆で低速運転をすることにもなり、著しく社会の効率性を犠牲にしてしまう。その場合は強制力や罰則を伴う決まりごとを作ることが、よっぽどマシだということだ(もちろん悪法はダメだが…)。

 ましてや感染症対策ともなれば「自己責任」で他人の命に関わる判断を下すのは困難を極める。あなたが万が一無症状感染者で、出先で人に移したら、あるいは救助されたら社会的にリンチされるから登山はやめよう…という雰囲気自体が、ある種の無法地帯を意味している。責任を負う範囲を限定しなければ私刑が横行し、事実上の無限責任になるため、誰も積極的に行動を起こせなくなるだろう。

 「時速80km」という目安によって様々なことがうまくいくように、合理的な規則によって人はミスを予防し、挑戦もできる、同じ理由で他人を無限に非難せずに済む。いわば、一定の秩序の中で人が自由に活動できるようにするために、法律や規則をみんなで管理し、最適化しようというのが民主主義である。
 「決められた枠組みの中では自由」というカッコ付きの自由でしか人は自由になれないというのは事実なのだ。

何を持って人の生命を守るというのか

 そういうわけで、政治家たちは、日本は民主的で人権を重視しているから私権を制限できない、とうそぶくが、制限や判断基準があまりにも不足し、結果的に人権も社会活動も自粛警察に席巻されてしまうような法治国家は不良品である。
 そして自粛という詭弁で国民同士が対立し、硬直状態になることの最大の弊害は、本来の責任の所在であるはずの政治機構への国民の監視が曖昧になることでもある。民主主義はあくまでも国民が政治機構を監視し、働かせることで精度を高める仕組みなのだから。

 要するに、この登山自粛の議論も「自己責任」論を一度排除して、合理的な根拠に基づいた情報共有や制度設計をしないと収集がつかなくなる、ということだ。感染症対策に関しては、当然どの国でも個人の「自己管理」の要素はあるが、さすがに日本の現状は科学的な根拠が乏しく、成り行き任せ感、他力本願感が強すぎるような気がする。死者が少ないから結果的に成功なのではなく、これからの社会のあり方をどうするのか、である。
 責任は個人に集約する形ではなく、社会全体で吸収する形であるべきだろう。例えば、感染者や個別の施設へのバッシングは禁止し、感染が拡大したら社会的な規制(枠組み)を修正する、規制したら補償もする、というように。
 言い方を変えれば、枠組みの中においては責任を追及されない、枠組みから外れても、世論による私刑ではなく、具体的な措置(社会制度の修正や罰則)で対応する。ということにしなくては、あらゆる個人が判断不能になる。もちろん、僕は一方的に規制を強化すればいいとは思っていない。無限責任論をなくすための、最低限の合理性が必要だし、責任の基準が曖昧なまま、危機管理などはできないということだ。

 はたして、地方における医療体制の準備も進まず、法的な移動規制もなく、補償も弱く、自己責任において感染症対策および地方(観光)経済は成り立つだろうか。この疑問は大きい。
 現状国内では無症状感染者が大勢いると言われる東京と、感染者がほとんどいないとされる岩手などの地域が混在している。
 6月以降、全国で緊急事態宣言が解除されたとして、東京から地方への不要不急の外出は引き続き自粛しよう、自己責任で…となれば、どの仕事が、どの帰郷が必要なのか。観光地が生き延びるために宣伝をするのは不要不急なのか。
 結果的に旅行者から地方に感染が拡大したら、それは責任問題なのだろうか?
 「コロナと共存する必要がある」ことを、公的に強く宣言し、説明しないかぎり、分断と萎縮、私刑が続くだろう。そして近視眼的に自粛を褒め称えあっている限りは、ジリ貧になっていくことだろう。

 これまでも感染症対策の専門家会議が、医療関係者だけで構成されていることなどから、政策がコロナ罹患死の最小化という医療的な正義に偏りすぎて、社会・経済的なリスクが過小評価されていることが危惧されていたが、未だにその気配は色濃い。

 コロナ罹患死、経済的な死、社会的な死、精神の死、文化の死、可能性の死、全ては人の生命の話であるということを忘れてはならない。「何をもって人の生命を守ると言うか」である。

希望を紡ぐ

 登山は、人が密集する状況を避ける仕組みを作った上で、遠からず自由に再開されるべきだと僕は考えている。
 コロナ鎖国状態の世界でこそ、足元の大自然は大きな希望なのだ。
 登山やサーフィン、アート活動などを目の敵にする傾向があるが、想像力や遊びの重要性を軽視する世界ほど危ないものはないと、個人的には思う。そもそも、現代社会を支える社会制度や技術体系などは、その多くが芸術や思想、遊びや冒険の中から発想されていることを思い出すべきだろう。
 同時に、平時から日本では、リスクを犯さず従順であることが「真面目な」生き方だと捉える風潮が強いが、リスク回避がやみくもに行動原理になる時、どれだけ個々の人生や組織運営、ひいては社会全体の創造性が低下し、巨大なリスクになるのかも考えるべきだろう。

 たしかに、山小屋については密集が起こりやすい環境であるため、コロナウィルスへの警戒が社会全体で緩まない限り、平常通りに営業することは難しい側面はある。
 山小屋が営業を縮小すれば、国立公園の管理体制などについて、抜本的に見直す必要に迫られるだろう。営利事業者である山小屋が支えてきた登山道管理も、遭難救助、情報提供、学術調査なども、多くの地域でできなくなるかもしれない。これは国立公園のみならず、公的な管理システムが脆弱な登山インフラ全般の問題として今までずっと危惧されていたことだが、コロナ禍によって急激に深刻化する可能性が高い。
 万が一登山業界自体が多少でも衰退するようなことになれば、予期せぬ自然破壊が台頭することも否定できない。これまでも様々な機会に述べてきたが、日本では自然保護思想が一般教養や明確な政治システムとして実装されて来なかったため、ある種の次善策として、大衆登山をはじめとした観光利用(観光産業)が、ダム開発などの大規模開発を遠ざけてきたという歴史がある。
 今こそ、山小屋や登山者、行政、一般社会などの垣根を超えて連携し、次の時代の、持続可能な人と自然の関係性を創造しなければならないと感じる。

 また、登山の問題にとどまらず、縦割り、上下関係、前例至上主義などの因習によって、コミュニケーション機能が至る所で目詰まりを起こしている日本社会では、有事どころか通常の世界の変化にすら対応できないということが露呈しているのも事実だ(僕は日本のIT化の遅れなども、ITの本質がコミュニュケーションのデザインであることと深い因果関係があると思う)。
 結果的に、感染症対策にせよ、経済支援策にせよ、マスク2枚にせよ、明日にでもやるべき緊急対策が「3ヶ月後に…」さえもできるかどうかわからないという社会を、僕たちは放置してきてしまった…。

 ともあれ、このまま実態に見合わない自粛礼賛を放置すれば、経済死もさることながら、なおさら地域格差は広がり、スキンシップ恐怖症で出生率は下がり、引きこもりを増やし、社会福祉体制は迅速に崩壊し、国際競争力は低下、多様性や文化が衰退する一方で暴力的な公共事業が猛威を振るうなど、長期的な社会の衰退を誘発しかねない。

 この巨大なパラダイムシフトを、どのように創造的に切り抜けていけるだろう。
 大きな危機の打開には、それに見合うだけの想像力と勇気が必要だ。
 今は改めて、冷静に選び取ることで希望を紡ぐことを提案したい。