山と僕たちを巡る話|雲ノ平山荘アーティスト・イン・レジデンスプログラム

雲ノ平山荘

山と僕たちを巡る話
第19回
雲ノ平山荘アーティスト・イン・レジデンスプログラム

PEAKS 2020年4月号掲載
文・写真:伊藤二朗 
Text & Photo by Jiro Ito

北アルプスの最奥、黒部・雲ノ平での暮らしから垣間見えること。
自然のありようをもっと身近に感じてもらうための“試み”の話。

 コロナウィルスが猛威を振るっている。都市機能にも、経済にも、僕たちの心のなかにも。時代は新しい段階を迎えているのだな、と思う。とある異国で発生した病気があっという間に世界中に広まり、情報とともに恐れが蔓延する。籠城してやりすごそうにも、インターネットや国際貿易、自由経済などに依存し、地面から遊離して生きている僕たちに、逃げ帰る場所などありはしない。
 ニュースからは世界の紛争や施政者たちの小競り合いなどの話はなりを潜め、見えないウィルスの行方をみなで追いかけている。一般的に肺炎で亡くなる人は、国内だけで年間で10万人を超えるらしいが、新型で未知であるという話になれば、10人の生き死にですべての都市機能が停止しかねない状態だ。あらゆるイベントは中止され、京都でも、ミラノでも観光地では閑古鳥が大合唱し、あちらこちらで仕事や企業が傾けば、コロナどころではない命の危機が発生するだろう。そんななか、満員電車は走り、神話の世界の象徴のごとくダイヤモンドプリンセス号は港に佇んでいる。
 時代が新しい段階を迎えていることを感じる。僕たちが恐れているものは、なんなのだろう。
 今年は記録的な暖冬だった。2月だというのに春霞にけぶった青空の下、梅の花がのどかに咲いている。無心に生きるものたちと、彼らを育む大地、空、水平線。見えているものと、見えないもの。僕たち人間は、自分が自然の一部であるということを、最大限に努力しなくては思い出せない、不思議な自然の一形態である。そんな生き物だからこそ「自然はなくてはならない」とか「あったほうが良い」などということを一生懸命追求しなければいけないということにもなる。なぜなら美しいから、という言い方もあれば、CO2が、という言い方もあり、衣食住の源である、と言うこともできる。いずれにせよ、必要どころの話ではなく、不可欠なのだ。
 この時代、自分のことも含め、目の前で起こっていることを冷静に評価するのは、とても難しいように感じる。さればこそ、ときにはPCを閉じて地面に潜るというか、手を延ばしすぎず、足元にある可能性を見つめ直したいものだ。
 先だってほのめかしていたように、雲ノ平山荘では、今年の夏から「アーティスト・イン・レジデンスプログラム」を始動した。登山は流行れども「自然保護」などという標語はなかなか市民権を得られないこの国で、もっと普通のこととして「自然は必要ではないか」という話をするためにも、芸術の力は欠かせないものだと僕は考えている。情報に踊らされるのではなく、現実を創ること。そして考えすぎずに、愛せれば良い。
 以下は、プログラムのステートメントより。

――それは、経済の発展が自然環境を破壊し、一方で自然保護派は現代社会を全否定する、という対立の連鎖ではなく、山と街、歴史と現代、生活や産業を緩やかなグラデーションでつなぎ合わせ、高次元に調和した環境を社会のデザインとして生み出すことです。
 都会の喧騒を逃れて山を訪れるだけではなく、山で育んだイメージを都市の創造性に還元し、日常的により多くの人々が自然の価値について考える機会を作ることで、自然環境と都市空間の分断を解消していく。
 経済活動と自然環境は必ずしも矛盾するものではありません。むしろ持続可能な経済とは、人の幸福感や、世界の美しさを抜きにして語れるものではないはずです。
 こうしたことを証明するためにこそ、芸術表現の発展は不可欠です。
 夜、雲ノ平の平原にたって目を閉じれば、そばにあるのは、空と大地だけ。街灯りはなく、あたりは山々の影が冷厳とそびえ、谷底からは太古の昔と変わらない黒部川の沢の音がかすかに聴こえてくる。夜明けには、鳥たちのさえずりが薄明のなか新しい一日の到来を告げ、日の出とともに湧き上がる谷風は花々をそっと揺り起こす……
 雲ノ平はあるがままの自然のエッセンスを表現者の精神に取り込むのに、この上ない環境だと言えるでしょう。
 自然の存在は、あらゆる芸術の根源的な衝動をはらんでいます。無限の色彩、大地の豊穣、圧倒的な破壊をもたらす地殻変動、死と再生の森。そのダイナミズムは古代文明の呪術的な宗教美術からコンテンポラリーアート、生活の道具から商業デザイン、念仏からクラシック音楽、パンクロックに至るまで、すべての芸術活動を内包していると言っても過言ではありません。
 人と自然の触れ合うところに常に、アートは生まれてきたのです。
 山小屋が、人と自然の新しい関係性を創造する基地として、最大限生かされるためにはどうすれば良いのか。その想いから今回の「雲ノ平山荘アーティスト・イン・レジデンスプログラム」は生まれました。
 こうした小さな一歩が、手詰まり感のある国立公園問題や、アウトドアカルチャーの持続可能性にとっても、ポジティブな刺激になることを願っています――

 雲ノ平で生まれたささやかな空想が、どのようにして造形になり、音になり、色彩になり、物語になるだろう。この夏の出会いを楽しみにしている。 


PEAKS記事

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