山と僕たちを巡る話|コロナの物思い(3)続・自粛

雲ノ平山荘

山と僕たちを巡る話
第22回
コロナの物思い(3)
続・自粛

PEAKS 2020年7月号掲載
文・写真:伊藤二朗 
Text & Photo by Jiro Ito

北アルプスの最奥、黒部・雲ノ平での暮らしから垣間見えること。
ようやく動きはじめた登山活動。果たして、その道のりは……。

 夏の匂いがする、白昼の道端。いつもであれば、山小屋の準備が大詰めを迎えている季節だが、山々はまだ遠く、霞の向こうに見える。あたりでは鮮やかな色の花々が咲き乱れ、道路脇の木立は緑の炎のように風に揺れる。生命の息吹が空間を満たしているが、人の歓声はない。頭上では太陽が王冠のようにギラギラと輝いていて、僕らは少しうなだれながらスーパーマーケットに冷たい飲み物を求めて歩く。これも、きっと愛おしい記憶になることだろう。
 この記事が掲載される6月中旬には、みんなは、世界は、自粛は、どうなっているだろう……そんなことを思い描くこともまた貴重だ。
 6月に入り、世の中では新たな状況が展開され始めている。ポジティブな話題としては、感染者が減ったことで緊急事態宣言が段階的に解除され、社会活動が再開されつつあるなかで、登山業界も徐々に活動再開の機運をつくりはじめたことなど。
 一方ネガティブな話題としては、自粛運動の影響を強く受けた地方社会が、混乱を恐れて性急に自粛を固定化し始めたことだ。いってみれば活動再開と、ギブアップの流れが明確な根拠に基づいた線引きもなく混在している状況である。
 登山の世界では、南アルプスの多くの山小屋の休業や富士山の閉鎖などの影響で、コロナの感染状況いかんにかかわらず、今年は「自粛」の2文字が取れないことになった。山小屋を開かないと登山道の管理もできない、管理できないから登山道を閉鎖する、しかし閉鎖する法的な根拠もないのであくまでも自粛……ということで、いままでとは違う文脈の「自粛」が刻印されたわけだ。ここでも自粛とはなにか、権利とはなにか、という答えは曖昧である。
 時間を稼いでいるうちにコロナと共存し得る社会体制を整えるための緊急事態宣言だったはずが、いつのまにかゼロリスク論に侵食される形で、トライもエラーもすることもなく、地域ごと閉鎖を決めてしまう事態に発展している。それは「コロナ=死」「観光客=感染疑い者」「自粛=社会を守る」という極端なイメージの帰結だといえる。
 山小屋、海の家、登山道、駐車場、交通機関の夏季にいたるまでの閉鎖、休業。地域をウイルスから守るという掛け声の下で、今年はレジャーはできない、という既成事実が積み上げられていく。一個人の素朴な疑問だが、海水浴は危なくて、温泉施設は良いというのは、感染症とは関係ない判断基準が働いているように見える。
 また、閉鎖の決断をいち早く下したのが、地方自治体の施設などであることが象徴的だ。この判断は新型コロナウイルスそのものに対するリスク管理というよりは、感染者バッシングや村社会的な「自粛警察」現象を恐れる、心理的な要素のほうが強く働いているようにも感じられる(※)。

 本来、社会・経済活動を最大限保護することに努めるべき行政機関が、だれよりも早く、保身を、店じまいを決め込んでいる。多くの民間事業者は生き残るために再開に奔走し、政府でさえも、良くも悪くも明るい雰囲気を演出し始めているなかで、自治体は地域を守るという論理で経済を止める。これは「公共」の倒錯ではないか、と思う。その決断は、いってみればよそ者の拒絶であって、一般的な旅行をも否定する機運にもつながってしまうのだから。
 コロナウイルスは1、2年は付き合わなければならないだろうといわれているが、未知なるウイルスのリスク評価は刻々と上書きされるなかで、継続的にウイルスと経済のリスクバランスを探る実証実験をすることが、共存への唯一の道のはずだ。新たな秩序の構築を試みるまでもなく投げ出すのでは、それこそコロナへの全面降伏でしかなく、社会を動かす努力をしなければ、コロナが去る前に、大勢の人々の生活が去ってしまうだろう。人は結局、経済的な生物なのだ。
 他方、登山の世界ではさまざまな山岳医療関係団体や山岳団体が、必ずしも互換性のない「登山再開ガイドライン」を続々と発表しつつある。これは、登山者を迷わせるだろう。いままでも国立公園の問題などでさんざん思い知らされていたことだが、縦割り社会の末路は空中分解である。たとえば登山届や携帯トイレなどについて、北アルプスを取り巻く自治体がそれぞれまったく異なるルールを打ち出し、結局なにがなんだかわからず計画自体が瓦解することを見てきたが、この国は「村社会⇄縦割り⇄制度設計ができない」という恐ろしい病気があるのはたしかだ。
 命の問題以上に、責任を取れない、という雰囲気が蔓延している。保健所に質問すれば、観光施設で感染者が出ても、明確な対応指針はできておらず、賠償責任の有無すらも答えられないという。インフルエンザよりも追跡しづらい感染症のリスクを末端が負うのは不可能なため、わからない時点で無限の自粛要請のようなものだ。
 ウイルス対策は本来、個別対応・個別基準ではなく、包括的な社会制度として、ドライに対応するべきだと思うが、自粛=自己責任の論点やクラスター対策の方法論のせいで、あたかも当事者となった個人や施設に際限なく責任があるような錯覚が起こり、業界ごとのガイドラインも外注&個別発表にさせたことで、必然的にリスク管理責任が、過剰に個人・末端に負わされるような空気が醸成されている。大船に乗るどころではなく、小舟で津波に対抗するような、竹槍とB29のような、そんな気分が漂う。
 コロナ禍によりグローバル化、都市依存、IT化などのあり方を見直す、前向きなきっかけになるという声も聞こえてくるが、それはあくまでも、最低限の秩序や判断能力を身につけた上で、次の段階に見えてくるものである。


※)同時に、一見先手を打っているようにも見えるが、じつは危機感が最高潮に達していた4月ごろの感覚で検討し始めた指針がいまになって固定されるような、周回遅れ現象に見えなくもない


PEAKS記事

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